第517話 それぞれの全力で
ぐしゃり、という音がした。
クラスクの大斧が赤竜の前脚を覆う竜鱗を砕いた音だ。
砕けた鱗が破片となって竜の脚に喰い込み血飛沫が上がる。
激痛に呻き吠える赤竜イクスク・ヴェクヲクス。
驚嘆である。
脅威である。
いかに多くの補助魔術に強化された身とはいえ、まさかに竜の鱗を砕いてのけるとは。
赤竜は憤怒と憎悪を滾らせた多重瞳孔で足元のオークを
だが驚いたのはクラスクも同様だった。
確かにこれまで以上の力で、全力を超えた全力でその斧を振るったけれど。
ミエの応援で力が滾っていたけれど、これはそれだけでは説明がつかぬ。
そもそも斧が本領を発揮していないのだ。
この斧にはまだ血が足りていなくて……
そこでクラスクは今更ながらに気が付いた。
その斧の『色』に。
斧が、赤黒い。
最初にキャスがその竜に与えてのけた傷口から僅かに血を啜らせたあの時から、その斧はずっと柄の先端部分だけが赤く染まっていた。
だのに今その斧は刃先まで赤黒く染まっている。
吸い上げた血に満ち満ちて狂気と歓喜に打ち震えている。
硬い鱗に邪魔されて血が吸えぬからその呪われし斧の威力が上げられない。
斧の威力が上げられぬから相手に効果的にダメージを与えられない。
その負の連鎖によってクラスクはこれまでずっと苦戦してきた。
なにせどんな場所から、どんな角度で攻撃してもその竜は硬い硬い鱗で確実に受けてくるのだ。
キャスがつけた傷口から溢れた血を啜ろうにも、相手はすぐにそれを察して二人を巧みに分断させてきた。
その点に於いて、赤竜はクラスクの目論見を悉く砕いてきたと言えるだろう。
だが今やその斧には血が満ち満ちている。
それが魔性の切れ味となって、遂に竜の鱗すら砕く威力を得たのだ。
けれど一体、その血はどこから……
「ア………」
そこで唐突に気づいた。
己の最愛の妻の様子を。
貧血のように真っ青な顔。
倒れて動かぬ身体。
うわ言のようにただ夫を応援し続ける様子。
そしてクラスクが一度死んだとき、駆け寄る事もなく壁際でひたすらに彼の斧を抱きしめていたこと……
その血は、ミエの血潮だった。
ひとたび手にすれば操られ殺人鬼となってしまう危険な斧を、決して掴むことなく腕で抱きしめて、その斧刃を己の肩へと強く押し当てて、自らの肌を切り裂きそこから斧に自ら血を与え続けていたのだ。
自殺に等しい危険行為である。
それは決して血を攻撃力に変えてくれる便利な斧などではない。
だから血を吸う量を調整などしてくれぬ。
手心なんぞ加えてくれぬ。
あればあるだけ血を啜り続け、吸い尽くして殺してしまう魔性の斧なのだ。
だがミエは迷わずそうした。
クラスクが死して倒れる際、彼女に預けるようにしてその斧を倒した時から、彼女は心に決めていた。
旦那様は死なない。
死んだってきっと生き返る。
それなら戦えない、なにもできない、応援しかできない自分にできることは…
彼が立ち上がった時、少しでも彼の力になる事だけだ……!
「オ、オ、オオ…………!」
手に入れた。
手に入れた。
竜を傷つける力を手に入れた。
妻がくれた絶好の、そして千載一遇のチャンス。
この機を逃すことはできない。
許されない。
だから、彼は……
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアリィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!」
この火山の火口に飛び込んだ時から姿を消していた、もう一人の仲間の名を全力で呼んだ。
× × ×
「こう縄トかデ大トカゲを拘束デきナイのカ」
クラスク市の円卓会議で、毎晩行われていた赤竜討伐の対策会議。
そこで様々な案が生まれては没になっていた。
現実的ではない。
予算的に厳しい。
予算は足りても納期に間に合わぬ。
そんな様々な事情で多くのアイデアが生まれては消えていったのだ。
本来ならそれも立ち消えるアイデアの一つに過ぎなかったのだが…
「あの巨体でさらに怪力だからニャー。縄や鎖は簡単に引きちぎられちゃうからニャー。難しいと思うニャ」
「確かに史書にもそうした失敗談が幾つか載っておるの。だいたい竜の圧倒的な大きさと怪力を甘く見て失敗しておるの」
「こう…魔術で作れナイのカ。切れナイ縄みタイナ」
「「!!」」
クラスクの言葉に幾人かがぴくりと反応する。
「…エネルギー力場をロープの形状にすることは可能でふ」
「魔術ってそんなことまでできちゃうんですか!?」
ネッカの返事にミエがびっくりして目を丸くする。
「エネルギーリキバ?」
「簡単に言うと魔力で作った硬い物質でふ。構造上物理的な方法では絶対に切れたり壊れたりしないでふ」
「ホウ!」
「ただ魔力を常に消費し続けるので長持ちしないのと、高度な魔力が必要なのでそうおいそれとは作れないでふが…」
「その魔法の縄で大トカゲをぐるぐる巻きにする魔具とか作れルカ!?」
「作る事はできまふがあまり意味がないと思いまふ」
「なんデダ」
「赤竜をぐるぐる巻きにする、という時点で『赤竜を対象に取っているから』
でふね」
「…結界ダカなんダカっテ奴カ」
「はいでふ」
魔術で竜の怪力でも切れぬ縄を造ること自体はできる。
けれどそれを竜に巻き付ける、という効果にした時点で竜を目標に取っている事になる、魔術結界の対象となってしまう。
そうなれば結界に阻まれそもそも魔術の縄が生成されず霧散してしまうだろう。
「なら…竜は目標にシナイ。魔術の縄を造っテ竜の前に伸ばす。これなら可能カ」
「可能だと思うんニャけど…竜を対象に取ってない時点でそれよっこらしょって乗り越えられたら終わりじゃないかニャ?」
ジト目でツッコミを入れるアーリ。
頷くネッカ。
だがクラスクは諦めない。
「なら…それが何本もあっタら、ドウダ」
「ニャ…?」
クラスクは羊皮紙に図解を始める。
フィギュアを造っているおかげかなかなかに絵も巧みなようだ。
「こう…竜の四方から撃ち出しテ、奴を囲むように切れない縄を張り巡らせル。固定は壁ト壁。目標は竜ジャナイから打ち消されナイ」
「けどそれって結局またいで越されたら終わりじゃニャイか?」
「そうダ。ダガこれが成功すれバ一瞬ダケ竜の動きを制限デきル。その一瞬が欲シイ」
クラスクの真剣な顔に当てられて…ネッカとアーリは互いに困ったように顔を見合わせた。
「時間的には作れて四、五本がせいいっぱいでふね」
「予算の方は……ニャ。問題なさそうニャ。計上しておくニャ」
二人の返事にクラスクは大きく頭を下げ謝意を示した。
「助かル。なら次はネッカ、この前の
「はいでふ!!」
× × ×
「まっかせるニャ!」
あの火口へと通じる長い長い通路…突然開かれた扉と≪畏怖たるその身≫と≪竜の吐息≫のコンボ。
あの時アーリもまた他の仲間と一緒に火口へと入り込んでいたのだ。
静かに。
静かに。
音もたてず。身をひた隠し。
その盗族としての一流の身のこなしで他の者の影に隠れ、影と影の間を渡り歩き、そのまま素早く部屋の隅へと隠れ潜んだのである。
彼女は一切戦闘ができぬ。
それは最初に当人が断った通りだ。
だが戦えぬということは戦闘に一切参加できぬという事を意味しない。
アーリはクラスク達と赤竜の戦いが激化する間ずっと、火山の火口の端っこに隠れ潜みながら、その外周をぐるりと廻って準備を整えてきた。
仲間がピンチの時も、クラスクが死んだときも、じっとじっと耐え続け、クラスクが号令をかけるのを今か今かと待ち構えていたのだ。
そして…時は来た。
クラスクの号令によってアーリの手で一斉に魔具が起動する。
火口の隅のあちこちから一斉に光る縄…エネルギーの力場によって形成された不壊のロープが計五本、次々に火口のが対岸の壁めがけて射出される。
そのうち一本は身じろぎした赤竜の尾が目の前に迫りそのまま霧散した。
魔術結界によって消滅したのである。
だが残りの四本は次々に対岸の壁に突き刺さり、竜の周囲を覆った。
赤竜の前に一本、左右に一本、そして斜め右後方に一本。
それぞれ竜をそちらに行かせぬよう、光るロープが斜めに張り巡らされた。
軌道が斜めなのはアーリの身長で設置し、竜の行動を制限しなければならぬ関係で、射出地点が地面かつ着弾地点が高めな為だ。
赤竜の魔術結界を避けて張られたそれは個々が竜の身体を束縛することはない。
だがそれはバリケードテープが如く竜の周囲を囲い、その行動を一瞬阻害した。
無論急造の仕掛けである。
どこかを跨げば超えられるし、ぎりぎり下をくぐれる場所もある。
そもそもが力場の効果は短時間しかもたぬ。
だがこの一瞬、この一瞬だけは、その隙間だらけの光の縄により、確かに赤竜はクラスクの攻撃から逃れる
そしてクラスクが……
「
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