第446話 魔狼襲来

崖下の隘路あいろが生まれるには幾つかのパターンがあるが、ここのみちは整地されずとも比較的平坦な場所が広く、恐らくかつて川底だったのではないだろうか。

いわゆる沢筋という奴である。


ただし今はすっかり干上がっている上に左右の崖が脆く、落石も多いため到底快適な街道とは言えぬ。

徒歩かちでなく全力疾走となれば猶更である。


そんな中を長い間がむしゃらに走り続けてきたサットクはついに足がもつれ、ごろごろと転がり近くの岩にその身を叩きつけた。


頑丈が取り柄のドワーフゆえそれで大怪我とはならないが、足を止めてしまったのは文字通り致命的だ。

なにせ追いかけてきた飛竜ワイヴァーンは動けぬ相手に毒針をつんと突き刺すだけでいいのだから。


ドワーフ族は丈夫なうえに頑健であり、人間族に比べれば毒や病気にも遥かに強い。

ゆえに飛竜ワイヴァーンの尾撃であっても死なずに耐えられる可能性もある。


だが一刺しでも毒を受ければその身は激痛にさいなままされ動きも鈍くなるだろう。

その隙に幾度も幾度も毒針を打ち込まれたなら、いかなドワーフ族と言えどいつか耐え切れず猛毒に屈してしまうやもしれぬ。

だから飛竜ワイヴァーンに襲われた者にとって足を止めるのは、動きを止めるのはそれだけで著しく不利な状況と言える。


クソッルバック!」


サットクは痛みに眉を顰めながら背中の斧に手を伸ばし、左に転がりつつ跳ね起きようとする。

が、砂利だらけの足元のせいで踏ん張ろうとした右足が滑り、一瞬立ち上がるのが遅れた。

戦場に於いては絶望的な隙だ。



これではいかにあのオークが急いでも間に合いは…



…と、その時、崖の上から咆哮が響いた。

なんとも剣呑で、そして危険な咆哮だ。


「狼だと!?」


狼の群れ、それは山岳に於いて決して出会ってはならぬ存在。

何せ彼らは腹が減れば平気で人型生物フェインミューブを襲う。

そして人型生物フェインミューブの肉を食らった彼らは例外なく魔物に成り下がる。

奸智を備え人を狩り追い立て殺す、危険な魔狼と化すのである。


それゆえ彼らは常に狩りの対象で、この地方では最近とんと見なくなった。

見なくなったはずなのに…その咆哮がなぜだか聞こえる。

ただでさえ目の前に飛竜ワイヴァーンが迫っているというのになんとも厄介極まりない事ではないか。

サットクはとことんついていない己の不運を呪った。



だがサットクの予想外の方向に事態は急展開する。



なんとか立ち上がろうともがく彼にとっとと毒針を打ち込まんと狭い崖を急降下しながら襲い掛かる飛竜ワイヴァーン

その羽と首の隙間の向こう…急斜面をすさまじい勢いで駆け降りる巨大な獣がいた。


狼だ。

それも相当に巨大である。

全長10フース(約3m)はあるだろうか。

あまりの大きさに一瞬サットクは己の目の錯覚を疑ったほどだ。


だが見間違えようがない。

その鼻先から頬に走った稲妻のような跡。


魔物だ。

魔狼である。

既に人を喰った後だ。

それもあれほどの大きさに育った魔狼ともなれば、一体どれだけ人肉を貪り喰ったのだろうか。


その魔狼は低く唸りながら崖を斜めに疾走すると、中腹の岩場で大きく跳躍し、その物騒な程に巨大な前脚を…



真上から、飛竜ワイヴァーンの頭をべちこんと叩きつけた。



「ギシャア!」


予期せぬ方角からの攻撃に反応が遅れ、地べたへと叩きつけられる飛竜ワイヴァーン

その上にどずんと着地する魔狼。

あまりの衝撃と痛みにさらなる悲鳴を上げる飛竜ワイヴァーン


その魔狼は飛竜ワイヴァーンを初めて見るのだろうか、地べたに這うその生き物を前脚でぎゅむと押さえつけつつ、尻尾を振りながら物珍し気に観察している。


だが飛竜ワイヴァーンはそんなに容易い相手ではない。

胴体を押さえつけられたままのその竜種は、こっそり背後から己の尻尾をもたげさせ、その先端についている毒針を己にのしかかっている巨大な獣に打ち込まんとした。


ばふんっ、と奇妙な音がした。

場合によっては金属製の鎧すら貫通するその強靭な毒針が、その魔狼の体表に弾かれた音だ。


ぎょっと目を剥く飛竜ワイヴァーン

人相手でもないのに、サットクはその竜種があからさまに仰天しているのが見て取れた。


いや竜種でなくても仰天するだろう。

飛竜ワイヴァーンの毒針は硬く、そして鋭利だ。

それが弾かれるとはどういうことだろう。


これに関しては理由が二つある。

一つは単純にその魔狼の毛皮が硬いのだ。

一本一本の毛の硬度はさほどではないため撫でたりする分にはむしろ柔らかい毛並なのだが、纏まると攻撃や衝撃に強い護りを発揮する。

なまじな鎖鎧よりも高い防御力を有している程だ。


二つ目はイエタの呪文の効果である。

イエタが先刻唱えた〈領域・信心の楯トゥミュツォル・フシューヒラウフト 〉は複数の対象にその効果を与える。

クラスクの近くにいて彼と一緒にその恩恵を受けていたコルキの周囲には、イエタの信仰心が形を変えた不可視の魔法の防壁が張り巡らされている。

そのため飛竜ワイヴァーンの毒針は魔狼の体表の近くで強い斥力を受け、斜めに軌道を変えられたところにその魔狼の毛皮によってさらに弾かれ脇に逸れてしまったのだ。


「ばうー」


邪魔そうというか迷惑そうというか、とにかくそんな表情を浮かべた魔狼は、飛竜ワイヴァーンの尻あたりにその前脚をかけると無造作に力を入れて尻尾を無理矢理地面に引き落とし、そのままがり、と地面を引っ掻いた。


岩を削るような乾いた音と共に絶叫が響き、飛竜ワイヴァーンが魔狼の下で苦し気に暴れる。

その横の地べたに飛び跳ねているのは彼の尾だ。


あろうことかその魔狼はただの前脚の一振りで飛竜ワイヴァーンの尻尾を三枚におろしてしまったのである。


片足で地面に組み伏せられていた飛竜ワイヴァーンは、まるで非難でもするかのように首を上に向け魔狼目掛けてぎゃあぎゃあと喚きたてる。

恐らく威嚇をしているのだろうが全く効いている様子はない。

それどころか…


「ばうっ」

「ギャンッテ!?」


その己に抗議してきた飛竜ワイヴァーンの顔を…魔狼はそのままぱくりと咥えたしまった。



びたん!

サットクの前で、それは突然起こった。



飛竜ワイヴァーンの顔面を加えたその魔狼が、首をぶるんと振って飛竜ワイヴァーンの身体を大きく宙に舞わせ、そのまま左の崖に叩きつけたのだ。


びたん!

続けて今度は逆側の崖の突き出た岩に。


びたん!

さらに地べたに。


びたん!

びたん!


右に、左に。

その首を振り回しながら、まるでじゃれつき遊んでいるかのようにその魔狼は飛竜ワイヴァーンの身体を幾度も幾度も叩きつけた。


遂に、抵抗が止まる。

咥えられながらも弱弱しくもがいていた飛竜ワイヴァーンの動きが、完全に止まった。



その魔狼の口からぶらんと力なくぶら下がった飛竜ワイヴァーンは…既にこと切れていた。



×        ×        ×



「…終わっタようダナ」

「ばう!」


黒馬にまたがりゆっくり戻ってきたクラスクの横で、地べたに座り込んだコルキが飛竜ワイヴァーンの肉をかじりながら返事をする。

ただその表情はなんとも微妙だ。


再び飛竜ワイヴァーンにかじりつきながらまたなんとも物悲しそうな表情を浮かべた。

どうやらあまり美味しくないようだ。


「無事カ」

「…お陰様でな」


明らかに魔物に違いない巨大な狼。

にもかかわらず飛竜ワイヴァーンを倒した後はこちらに敵意も向けず食事にかかりきりで、あまつさえ人懐こそうな鳴き声を上げながら尻尾まで振っている。


結果的にその魔狼に助けられた形になったサットクは、斧を構えいつ襲われても対処できるようにしながらずっとクラスクが来るのを待っていた。

まさかとは思いつつ、その狼が助けに入ったタイミングからどうしてもある疑念が拭えなかったからだ。


「…はお前の手の者か」

「そうダ。うちの飼い狼ダ。前回留守番ダッタから今度はついテく言っテ聞かなかっタ」

「…まさか魔物を飼っているとはな」


眉根を寄せながら、なんとも嫌そうな顔で飛竜ワイヴァーンを貪るその魔狼を見る。

まあ魔物と言えば危険極まりない存在であり、そのため多くの人を襲う恐れのある肉食獣が駆逐されているこの世界に於いて、ある意味当たり前の感覚なのだけれど。


「クラスク様!」

「イエタか」


その時、空より舞い降りた天翼族ユームズがクラスクの元へと駆け寄った。


「近くに他の危険な者はいないと思われます」

「そうか。助かっタ」

「いえ、とんでもありませんわ」


イエタの報告にやっと一息入れるクラスク、そしてサットク。


「それにしても短い間に二度もオークに助けられるとはな。不運もここに極まれりだ」

「そいつハよかっタナ。それだけ不幸が続くなら後は上がルダケダ」

「気分を上げるには気付けが足りんな」

「それは困っタ。気付け代わりの酒シかナイ。蒸留酒ダガ」

「仕方ない! それで我慢してやるか!」

「我慢シロ。オーク族はガサツダからナ」


そんな文句とも罵倒ともつかぬ応酬をしながらクラスクが背負い袋から酒瓶を取り出し、サットクに渡す。

そしてもう一本酒瓶を取り出すと、指先で蝋の蓋を取り去った。


ニタリ、と笑い合った犬猿の仲のはずのドワーフ族とオーク族が、互いに酒瓶の底で乾杯し、一息に酒を煽る。







先ほどの喧嘩腰のようなやり取りはドワーフ族ならば酒場の席の当たり前の掛け合いのようなもの。

彼らとの短い付き合いの中で…どうやらすっかりドワーフ流のを身に着けたらしきクラスクなのであった。







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