第427話 かくて空より降り立って

空に、ある。

空に、いる。


は大きな翼を広げて空に輪を描くように飛んでいた。


が描く輪の真下に、村がある。

チェック柄に区切られた畑や農地の端にあり、その脇に草原と小さな森を擁している小さな村だ。


この辺りに森などなかったはずだ。

ここ最近で育ったものだろうか。



その新たに生まれたばかりの森を…は、知らぬ。



はその村の上空を輪を描くように飛んでいた。


ゆっくりと、ゆっくりと。

輪を描きながら、しかして同じ高さに留まることなく。


ゆっくりと、ゆっくりと。

徐々に、そう徐々にその高度を下げていった、




×        ×        ×




「ドウシタ。アー、ユッニ」


オーク達の中から一人が進み出て、その娘に声をかけた。

この村のオークの一人、クロエヴである。

名前を呼ぶときに少し躊躇したのは、つい最近まで彼女の名を知らなかったためだ。


奪ってきた女。

子を産ませ育てさせるためだけの所有物。

かつて彼女を呼ぶときは適当に付けたオーク語のあだ名を使っていた。

奴隷同然の、それも言葉も通じぬ相手の本当の名前など、つい最近まで気にかけたこともなかったのである。


ちなみにこの村は主たるオークの五部族のうち、東山ウクル・ウィールのオーク達の一部が住んでいる。

ミエがギスを引き取りに行ったあの村の族長、『虎殺し』ヌヴォリの村の住人達だ。


ユッニと呼ばれた娘は人間族で、先ほど他の村娘たちに小突かれイクフィクの妻ロエポに背を押された女だ。

彼女は元々東山ウクル・ウィールに攫われてきた娘の一人であり、縄で縛られ自由を奪われてクロエヴの子を産むための慰み者となっていた。

それが族長ヌヴォリがクラスクに降ったことで方針転換、村を出てゆかず、オークの嫁となる条件で自由を与えられた状態である。


ユッニは前髪が少々長く、いつもはその瞳が隠れてよく見えぬ。

けれど彼女が俯き加減におずおずと上目遣いでクロエヴを見上げると、その前髪の隙間から翡翠色の瞳がほの見えた。


この地方の人間族の瞳は基本透き通った青であり、翡翠色の瞳をしているものはまずいない。

種族としてはエルフ族がそうなので、その他の特徴は人間族そのものであるユッニは、だからかつてその遠い祖先にエルフの血が混じっていたのやもしれぬ。


「あ、あの、蜂蜜ククィ ワッフィこの前のルギ ブキノアック ロウイ…」


ぼそぼそと呟く。

オーク語である。


かつては彼ら彼女らの言語は断絶していた。

ただその肉体を思うがままに犯し子を産ませ育てさせるだけが目的のオークどもにとって攫ってきた娘たちの言葉を理解する必要はなかったし、彼らが教えてくれぬ以上娘たちにもオーク語を学ぶ契機自体が存在しなかった。


それが今ではクラスクの指示によって村のオーク達は共通語ギンニムを学び、そしてドゥルボ達はオーク語を習うようになっている。

ただし習熟度的にはやや物覚えの悪いオークどもが学ぶ共通語ギンニムより他種族の娘らが学ぶオーク語の方がだいぶ進んでいるため、結果としてこの会話もオーク語で為されているわけだ。


このあたりの格差もどうにかしなければ、とイクフィクは内心ため息をつく。


「アア。採ッタナ。ソレガドウシタ」

「その、お酒、できたの…」

「酒!?」


ざわ、とオーク達がざわめく。

酒といえばオーク族の大好物。

けれど蜂蜜と酒の因果関係が彼らにはすぐに理解できぬ。

ごく一部を除き、発酵食品の発達が遅れている世界なのだ


「蜂蜜カラ酒ガ作レルノカ?!」


興奮し肩を掴んで揺するクロエヴにがっくんがっくん揺らされながらなんとか頷くユッニ。


「う、うううううううんなの……っ! でででででもっ、おおお落としちゃううううう」

「アアイカン!」


クロエヴは慌てて手を止める。

そして彼女が大事そうに抱えている壺を二人で覗き込み、落ちても零れていないことを確認して互いにほっとして顔を見合わせる。


「確カニ酒ノ匂イダ。無事ミタイダナ」

「うん…」

「オ前ガ作ッタノカ」


そう尋ねられたユッニは不安そうに後ろを振り返り、腰に手を当てたイクフィクのの妻、ロエポが力強く頷くのを見て再びクロエヴに向き直った。


「う、うんなの。あのね、蜂蜜取ってきてくれれば、わたし、お酒作れるの。村の女の子みんなも、つ、作れるって……」

「「「オオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」」」


オーク達が興奮して快哉を叫び、村娘たちを一瞬びくりと怯えさせる。

ミエから彼らが自分たちに対する暴力を禁じられていると聞かされてはいても、やはりかつてその身に覚えた体験はすぐには忘れられぬものらしい。


「スゴイ! 酒スゴイ!」

「オ前タチ酒作レルノカ! 知ラナカッタ! スゴイナ!」


興奮してまくしたてるオーク達を見ながら、一歩下がっていたイクフィクが口を挟む。


「他ノ種族デハ酒造リハ女ノ仕事ダ。ウチノ街ニモ酒ガイッパイアッタダロ。女ヲ大事ニスルト酒作ッテクレル」

「「「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」」」


オーク達に強く刷り込まれる酒と女の関係性。

今後彼らは決して女……自分たちのドゥルボとなった娘たちを粗略には扱わないだろう。

イクフィクは内心ほっと息をついて、その後思い出したようにその娘を観察した。


小躍りして喜んでいるオーク…クルエヴを見つめながら、ユッニは少しだけ嬉しそうに微笑んでいる。

その瞳は前髪に隠れほとんど見えないけれど、彼女の表情に喜びと羞恥が入り混じっているのがイクフィクには見て取れた。


(ホウ、ナカナカドウシテ…)


クルエヴというオークの向こうの村での彼女の扱いが存外にまともだったのか、それともよほど夜の営みが上手かったのか。

理由は判然としないがどうやら彼女は己の支配者から夫の座へと収まったそのオークを、憎からず思っているようである。


(悪クナインジャナイカ、コレハ)


ほんの小さな萌芽にすぎないけれど、確かにそこには希望があった。

出会いもその後も最悪だっただろうけれど、これから先はどうなるかわからない、そんな運命の悪戯が。




イクフィクはそんな風に感じ入った後…ようやく、異変に気が付いた。




「ナンダ……?」


鳥が、飛んでいた。

空を、鳥が飛んでいた。


くるくる、くるくるとこの村の上を廻るように、ゆっくりと、悠然と飛んでいた。


別にそれ自体は大した問題ではない。

さっきからずっと気づいてはいた。


その鳥がゆっくり降下しつつあることだって気づいていたのだ。

おそらくは森に湧いている虫などが目当てなのだろう。


ただ…その鳥の挙動が妙にイクフィクのと合わぬ。

もしあれが鳥だとすれば、あの速度で降下しているのな、らもうとっくにすぐ真上まで来ていないとおかしいはずだ。

いやむしろとっくに地上に激突していたとしてもおかしくない。


もしそうでないとするのなら…その鳥はイクフィクが思っていたよりもずっとずっと高いところを飛んでいた、ということになる。


だがその高さで普通の鳥と勘違いしたのなら、それは鳥よりも遥かに、そう遥かに巨大な化け物、ということに外ならぬ。


「…オイ、オ前ラ」


絞り出すような声で、イクフィクが告げる。


「戦イノ準備ダ」

「敵?! 敵ガイルノカ?!」

「マジデ!」

「ウヒョー!!」


つい先刻まで酒の存在に驚喜していたオーク達は、戦と聞くとたちまち狂喜乱舞して各人己の家に飛び込み斧をひっつかんで戻ってきた。

そのあまりの速さにユッニは目を丸くする。


「デドコダ! ドコニ敵イル!」

「イクフィク! 教エロ!」

「…上ダ」


もはやその影が彼らを覆うほどに大きくなっているそれをイクフィクが指差し、皆が上を向いた。





大きな、大きなは、もはやイクフィクとオーク達一行をまとめて己の影の下に覆い隠さんばかりに降下していた。

その姿を見た途端、その場にいた全ての者の足が竦み、その心の内から恐怖が湧き出し、滲み溢れ出て我を失った。


怖い。

怖い。

怖い。


それは根源的恐怖。

絶対叶わぬ相手と相対した時の絶望的な畏怖だ。


震え、怯え、惑い、その身が強張る。

歴戦のオークの猛者達が、戦を、命のやり取りを好む狂戦士たちが、まるで金縛りにでもあったかのようにその動きをびたりと止めた。


しまった、とイクフィクは思った。

彼は己の身に起こっているものに覚えがあった。


かつてクラスクの前の族長たるウッケ・ハヴシ、彼が得意としていた戦法である。

彼の秘術にかかればまるで足が地面に縫い留められたかのように身動きが封じられ、いいように料理されてしまう。

およそ戦いに於いては絶対的なアドバンテージを産む、ウッケ・ハヴシ必勝の戦術であった。


これはそれと同じだ。

違うところといえば前族長が相手を脅しつけることで強引にその効果を発揮していたのに対し、頭上の何者かはただこちらが見ただけでそれを発現させたこと。

それはつまりが畏怖や恐怖の対象であるということに外ならぬ。


要は前族長が必殺の戦術として使っていたあれを、己の頭上の『それ』はで周囲に放っているのだ。


それもウッケ・ハヴシが用いていた秘術の対象は一人がせいぜい、二人で効果が半減し、三人にもなれば多少足を遅くする程度のものでしかなかった。

だが己の上を悠々と滑空する存在が放つそれは、まるでこの村全体を覆っているかのようだ




簡単に言えば…




重々しい音を立ててが地面に降り立つ。

村の端、オークどものすぐ後ろ。

斧を構えたオークの一人がその巨体の着地に巻き込まれ、腹に押しつぶされて紅蓮の花を地面に咲かせていたけれど、それでも村の者たちは誰一人身動きできぬ。





口を、開いた。

何かを、喋った。


その大きな羽を持つ紅蓮の化物が、己の前で固まる卑小卑賎の者どもに何かを告げた。

それが何の言語かはわからぬが、にはのだ。


そしてその長い首で村の者…オーク達を、娘たちを睥睨するようにぐるりと見まわした後…




は、大きく、口を、開けた。




×        ×        ×




大きな羽音が聞こえる。

既にその空を飛ぶ何者かはその村から飛び去った後のようだ。



いや…もはやそこには村はなかった。




そこにあるのはただ一面焼け焦げた廃墟だった。

燃え落ちた家、焼け焦げた地面、そしてあちこちに転がる黒い炭…






その横に転がっている壺から気化して漂う酒気だけが……ここがつい先刻まで村だったことを示す唯一の残滓であった。




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