第424話 開校準備
その日、朝からイエタは大忙しであった。
初授業を前にして他の教師役に選ばれた街娘たちに人にわかりやすく教える方法や授業方針などのおさらいをし、アーリが納入した授業器材を皆に指示して運び配置して、さらに戸籍から作成された出席簿を確認する。
公布と告知を行ったうえで、体調不良などの理由なく子供が来なかった場合、その相手を調べる必要があるからだ。
「ええと…あと足りないものは…」
教会の青空教室でそれなりに授業をしてきた経験はあるけれど、さすがにこの規模の授業は初めてだ。
しかも自由参加だった青空教室と異なり今回は出席が義務である。
誰が来て誰が来ないかをしっかり把握しなければならぬ。
これまでとはかなり勝手が異なるのだ。
とにもかくにも忙しい。
ばたばたと廊下を走り回る他の教師役の娘ども。
皆で準備を進める中、緊張のためイエタは誰もいない教室で水差しから喉に軽く水を含ませた。
…と、廊下の空気が不意に変わる。
なにやら小さな驚きと歓声の声がイエタの耳に届いた。
「
「クラスク様!」
と、そこに市長であるクラスクが片手を挙げながら教室に入ってきた。
「…違うナ。アー、
クラスクが
最初の言い方だとどちらかというと性的な、「お盛んだな」に近い意味となってしまうからだ。
まあオーク族としてはどちらの言い回しも大差ない感覚なので、普通のオークはついそのまま言ってしまいがちだけれども。
クラスクもうっかり言いかけてしまうあたり、まだまだオークの風習はこの街でも根強く残っているのかもしれない。
「いらしていたのですか」
「イらシテタ。大事ナ施設ダからナ」
「そうですね…」
イエタは改めて部屋を見渡す。
それなりの広さの部屋に机と椅子がいくつも並べられている。
ミエ曰く『
そしてそんな教室が、前後に幾つもある。
年齢や学習の習熟度に応じてクラス分けを行い、より細かく教えるのだそうな。
無論イエタも個々の勉強の進み具合に応じて子供たちに教え方を変えたりはする。
けれどそれは人数が少ないからこそできることだ。
この規模でそうしたことを効率的に行おうだなどと、よくもまあそんなことを考え付くものだ、イエタはミエのアイデアに感心しきりであった。
「後はマア、イエタが心配ダッタ。ダイブ根を詰めテタからナ」
「まあ…!」
クラスクの言葉にぱああ、と顔を輝かせるイエタ。
嬉しい。
とてもうれしい。
優しい言葉が嬉しい。。
気にかけてくれたことが嬉しい。
それよりなにより、来てくれたことがただ嬉しい。
イエタはとててて、とクラスクの前まで小走りに近寄って、彼を見上げる。
その偉丈夫を下から見上げるのもまた彼女の好むところであった。
…と、そこにひそひそと小さなささやき声が耳に届いた。
イエタ以外の先生役の街娘たちである。
ミエの世界のように扉があるわけではなく、教室の中は廊下から丸見えだ。
娘たちはその廊下から顔を覗かせながら、クラスクとイエタの逢瀬を見つめてはひそひそと噂しあう。
あの二人付き合っているのかしら。
どうなのかしら。
でも市長にはミエ様以外にすでに二人も妻がいらっしゃるのよ。
まあお盛んだこと。
羨ましいわあ。
四人目? 四人目なのかしら。
でもイエタ様は聖女と呼ばれる方よ。
でもでも、今のあの嬉しげな顔見た? あれはどう考えても…
かああああああ…と頬を赤く染め、イエタがつつ、と二歩ほど下がる。
彼女らの言っていることはよくわからなかったけれど、妙に頬が火照って不思議に恥ずかしい。
わからない。
理由はわからないけれど、これ以上彼の近くにいては駄目だ。
妙な切迫感が内から湧き上がってきて、イエタは珍しく狼狽えた。
「…お前達、仕事ハ終わっタのカ」
「「「きゃあ!」」」
じろり、とクラスクに睨まれ、首をすくめた娘たちが黄色い声を挙げながら蜘蛛の子を散らすようにバタバタと駆け去ってゆく。
ただその様は恐怖で逃げ出したというよりもむしろ教師に怒鳴られて逃げる女子生徒のノリに近い。
上げている悲鳴もどこか楽しそうにすら聞こえる。
「イエタ、大丈夫カ」
「は、はい、問題ありません」
「?」
クラスクに声をかけられびくん、と肩を震わせたイエタが慌てて返事をする。
彼女の態度の変化に首を捻ったクラスクが一歩彼女に近づき、そしてそれに合わせるようにイエタが一歩下がった。
「なぜ逃げル」
「あ、いえ逃げているわけでは…」
「なぜ逃げル」
「え? え?」
なぜだろう。
なぜだろう。
なぜ自分は逃げているのだろう。
イエタ自身にもその理由が皆目わからず、頬に手を当てて惑乱する。
「熱デモあルのカ」
「あ……っ」
ぬっと身を乗り出したクラスクがたったの一歩で間合いを詰め、イエタに覆いかぶさるように上から覗き込む。
後ろに逃げようとしたイエタを背後の壁が阻んだ。
そして耳まで赤くなってわたわたと動転する彼女の額に手を当てて熱を測った。
かあああああ…とますますその顔を朱に染めるイエタ。
なんだろう。
これはなんだろう。
この神への恐悦にも似たこの身を震わす恍惚は、いったい何なんだろう……
「旦那様!」
…と、その時廊下の方から声がした。
クラスクが振り向くと…そこには腰に手を当てたミエが立っている。
唇が少しだけへの字に曲がっていて、クラスクは彼女が少々お冠であることにすぐに気づいた。
「ドうシタ」
「合意の上ですか? それなら構いませんが!」
「ゴウイ…?」
ミエに言われてクラスクは改めて己の状態を顧みた。
教室の一角、壁際に
己の下でイエタは小さく身を竦ませ、震えながら、耳まで赤く染めその瞳を潤ませていて…
クラスクはぐりんとミエの方に顔を向け真顔で答えた。
「ゴウイジャナイ。これムリヤリ」
「こらー!」
とすとすとすと二人の下にやってきたミエは、まるで己が怪力であるかのようにやすやすとクラスクをイエタから引き剥がす。
そして真っ赤になってうつむくイエタを正面から優しく抱きしめ、よしよしよしとその背を撫でた。
わけもわからずぽろぽろと泣き出すイエタ。
「おーよしよしよし。ごめんなさいね、怖かったですかー?」
「ちが、違うんです、違うんですミエ様。わたくし、わたくしは…!」
目元を赤く腫らして顔を上げたイエタの両頬を、ミエがぷにっとその掌で包み込む。
「落ち着いてくださいな。今日の授業はできますか? 休みます?」
「あ……っ」
ミエに言われてはっと我に返る。
そうだ。己には今日やらねばならぬことがあったのだ。
「…大丈夫です。少し休めば問題なく」
「わかりました。では休憩室で少し休みましょう」
ミエに肩を貸され、教室を出てゆくイエタ。
なるべく気配を殺しながら、ミエの邪魔にならぬよう教室の隅に潜むクラスク。
「…何があっタ」
よく自体が呑み込めず、首を捻るクラスク。
「オンナゴコロ? は難シイナ」
だがイエタ自身が未だ自覚できていないその感情を察するほどには……彼はまだ人の心の機微を掴めてはいなかった。
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