第396話 本家はちみつ森
それから数日後、
彼女から見て左…つまり東方には白銀の山嶺が東西に伸びており、その麓、彼女の正面から右よりにかけて、大きな森が広がっている。
その『
「あちらの道でしょうか…」
南に通じる街道が二手に分かれ、いずれも
そしてそのいずれもが往来が盛んだ。
ただ…明らかにその往来には差があった。
質の差である。
左側の街道は主に長旅の者と隊商で賑わっている。
一方で右側の街道は軽装の者が多く馬車も荷馬車ではなく乗合馬車だ。
今でいう乗合タクシーのようなものだろうか。
軽装の者が多いという事はつまりクラスク市の者か、或いはクラスク市に泊まっている者が訪れている、ということだろうか。
イエタはその右側の街道の上をふわりと飛んで、そのまま森の縁へと降り立った。
そこから先は徒歩で行くつもりのようだ。
街道は太く、しっかりと整備されており、森の中だというのにとても歩きやすい。
馬車が通ってもその端を
街道の上には左右の森から枝と葉が張り出しており、美しい木漏れ日が差し込んでくる。
時折往来する乗合馬車を横に避けながら、イエタは己と同じ方向…おそらく同じ目的地へと向かう者達を観察する。
道行く者はどこかのんびりとしており、ちょうど近くにある観光地に今から出向こう、といった風情である。
実際彼らはそんな気分なのだろう。
クラスク市の大通りに設置されている街の案内図にはしっかりとこの森の中の村の場所が記されていたし、なにより中街にある『案内所』でこちらもしっかり紹介されていた。
案内所とは中町に設置されている案内をする店である。
蜂蜜関連の食べ物、化粧品。
酵母を使った多種多様な酒、最近特に押されている蒸留酒。
他の街と異なり季節を問わず売られている肉、特に日持ちする干肉。
多様で新鮮な取れたての野菜。
最近これに加わった発酵食品等々、多くの特産品。
そして街の名所…例えば市長クラスクが大オークとなった草原、それを当時村にいた者が目撃したという城壁の上の歩廊、街の守護者たる巨大な狼がよく出没されるとされる小道、壮麗にして堅固な居館…等々。
そうした観光案内とそれが記された羊皮紙の地図が配られているのだ。
これをパンフレットと呼ぶ。
意味は不明である。
案内所とは観光案内と地元の物産などを取り扱った、いわば道の駅のような場所なのである。
そして…その案内所の羊皮紙に、森の中にあり、この街の前身となったクラスク村について記されている。
曰く『はちみつオーク』と呼ばれる人を襲わぬオークたちが、希少な蜂蜜にて生計を建てて来たこの世でも希少な村。
『花の村クラスク』
わあ、という声が通りの前方の方から聞こえてきて、イエタは視線を前に向けた。
先刻まで木の葉の合間の空と雲を眺めていたのだ。
前から響いて来た声は歓声と嘆声の入り混じったものだった。
なにか予想外の、或いは予想以上の何か目にした者の反応だ。
イエタは歩を早める事こそなかったが、少しだけ胸を高鳴らせて足を進めた。
「まあ……!」
視界が一気に広がり、イエタはあらかじめ聞いていたにも関わらず感嘆の声を上げてしまった。
森が失せたわけではない。
ただこれまでの森がずっと左右に広がって、前方に生えている木々の植生が変わったのだ。
葡萄や林檎をはじめとした様々な果樹が広がり、娘達がその世話をしている。
実はだいぶ大きくなっており、秋口が近くなれば一斉に収穫期を迎えるだろう。
森の中に開けた大きな広場のような、その一風変わった果樹園に、イエタならずとも彼女の後からやってきた者達もまた次々に歓声を上げていた。
街でもよく見かけた民族衣装を纏った村娘達がなにやら歌を歌いながら果樹の世話をしている。
その有様は牧歌的で、同時にどこか幻想的だ。
この周囲を森に囲まれた、隠れ里のような雰囲気がそう感じさせるのだろうか。
イエタの前にも後ろにも、クラスク市から徒歩でこちらにやってきた者達がいる。
どうやら彼ら彼女らはこの先にある村を見学に来たらしい。
いうなれば観光客である。
と、その時前方の方から小さな悲鳴が聞こえた。
それと同時に何かの音が聞こえる。
ぶぅん、という何かが小刻みに揺れている音…羽音である。
直径約15cmほどの巨大な昆虫……蜜蜂が、観光客たちの前を飛び過ぎたのだ。
「そんなに怯えなくっても大丈夫よぉ、ほっときゃ襲ってきたりしないから」
「よその人は怖がりさんねえ」
顔をひきつらせた観光客たちに村娘達が笑いながらそう告げる。
そうは言われてもなにせ大きさが大きさである。
目の前からは過ぎ去ったけれど、あちこち飛び回るその巨大な蜂を、皆どこか驚愕と恐怖の入り混じった目で凝視していた。
「果樹園に迷い込んだ数匹にやいのやいの言ってたらアンタたちこの先行けないよぉ?」
「そうそう、なにせこの先はこの村の名物の花畑だからねえ」
そうだ。
花畑である。
クラスク市の案内所でもらった羊皮紙…『ぱんふれっと』にもここは『花の村』と記されていた。
だからオークの街を見学した後、彼らは物見遊山の気分でこの村へとやって来たのだ。
蜂は確かに少し怖いけれど、せっかくここまで来たのだ。
せめて一目、一目その花畑を拝まなければ…
おお…というどよめきが湧いた。
またイエタの前方からだ。
彼女はその声の原因を知ろうとやや足早に前の観光客らに追いついて…
「まあ……!」
不覚にも、その日何度目かの感嘆の声を上げてしまった。
…花である。
一面の花である。
色とりどりの美しい花畑が、区画ごとに色を変えながら鮮やかなグラデーションを描きつつ広がっている。
その光景を見た者達の口から思わずほう、という溜息が漏れた。
それはそれほどの見事で、美しかったのだ。
当然ながら果樹園より花畑の方が蜜蜂の数は多い。
せっせせっせと花の蜜を集めては森の奥へと消えてゆく。
ただ先程の村娘の言った通り、確かに無闇に刺激しなければ特段こちらを気にする風もないようで、観光客たちは少し安心したように自らの本分たる観光を満喫した。
「~~~~~♪」
イエタは花が好きだった。
丘の広がる彼女の故国にて、空を飛びながら眼下の花々を眺めるのが好きだった。
それがこんな風に集まってまとめて咲いているのを見るのは初めてで、彼女は幾度も感嘆の声を上げながら花畑を方々歩き回り、存分に堪能したのだった。
「………………?」
ただ、違和感がある。
この花畑には何かが足りない。
とても綺麗で、整っていて、様々な花が咲いているけれど…
彼女が、イエタが認識している花園としては、何かが欠けていた。
「あら…?」
花畑の一角に目を止める。
『ただいま整備中』と描かれた看板が立っており、そこだけ花が咲いておらず、剥き出しの土だけがあった。
そしてくるりと周囲の花畑を見回したイエタは…多くの観光客で賑わうその花畑に欠けているものにようやく気付いた。
『赤』だ。
この花園には赤が足りない。
もちろん赤みがかった花は幾つかの区画で咲いているけれど、赤と言えばこれ、という花がここには咲いていないのだ。
「
そう、
それは…共通語ではこう呼ばれている。
…
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