第348話 深謀か浅慮か
冷汗が背筋を流れて落ちる。
なにせ己の名前どころか従軍魔導師としてこの村を討伐に訪れていたことまで知られていたのだ。
もし彼らがこの城塞を間に合わせていなかったなら、騎士団による突撃で蹂躙していたかもしれない。
そして己はその援けとなって
そんな自分を…彼女は待ち受けていたというのである。
心の中で最大級の警戒音が鳴り響いた。
当然だろう。
当時の従軍魔導師が何者かを調べること自体は他の手段でもできるかもしれない。
だが自分がその当人だと看破された言う事は、おそらく強力な占術によるものである可能性が高い。
つまりこの街のお抱えの魔導師の仕業である。
宮廷魔導師ヴォソフの弟子として、ネザグエンもまた己が優秀な魔導士である自負はあった。
実際に開戦したわけではないにせよ、一度は敵としてこの地にやってきた身として、それなりに対占術の対策を施した上でここに赴いたのだ。
けれど相手がここまで調べ上げている以上、己の魔術による護りは突破されたのだ。
しかもそれをこちらに覚られる事なく、である。
それはつまりこと占術方面において、自分よりこの街の魔導師の方が格上である、ということになる。
魔術戦に於いて格上の相手を擁している相手…
魔導師としていくら警戒しても警戒しすぎということにはならないはずである。
どうしよう。
どうすればいい。
魔導術でこの場を切り抜ける?
いやそれは駄目だ。
どんな街でも街中での無許可の魔術行使は禁じられている。
魔術には大量の殺傷が可能な呪文も少なくないためである。
もしここで魔導術を使ってしまえば、最悪その場で処断されても文句は言えないのだ。
そしてこんな場所で正体を明かす以上…相手にはこちらの魔術に対する対抗処置が整っていると考えていい。
では
いやこちらは既に城門をくぐってしまっている。
全力で逃げ出そうとすれば衛兵に見咎められ取り押さえられてしまうだろう。
交渉…そう交渉である。
向こうはこちらに何らかの相談事があると言っていた。
とりあえずそれを聞いて対策を考えるというのはどうだろうか。
己が頼みとする魔導術が半ば封じられた状態…
ネザグエンはごくりと喉を鳴らし決死の交渉に臨んだ。
「その…相談事、というのは?」
「はい! こちらに来ていただきたいんですけど…」
否と言えるはずもない。
なにせ向こうはこの街を作り上げた大オーク・クラスクの第一夫人である。
彼女が声を上げれば近くにいる衛兵やオーク共が群がってたちまち自分は捕り抑えられてしまうだろう。
ネザグエンはミエに誘われるがままついてゆくしかなかった。
「ミエ様!」
「ミエ様!」
「はい、お疲れ様です。今日も頑張ってますねー」
「「はい!」」
居館の正門を守る衛兵に挨拶しながら中へと入ってゆくミエ。
声をかけられた兵士たちがなんとも嬉しそうな、高揚した表情となった。
彼女の後をついてその横をぺこりと頭を下げ通り過ぎるネザグエン。
兵士たちの反応からしてこの夫人は一般兵にも周知の存在であり、また相当に尊敬を集めていることが見て取れた。
ただこの街の規模と成立時期、さらに彼女が当たり前のように街中を出歩いていたことから考えると、兵士だけでなく街の住人もある程度彼女の事を把握していると考えられる。
にもかかわらず先刻は街の住人が誰一人彼女に声をかけようとはしなかったし、その名も呼ばなかった。
新しく入って来た住人は単に知らないのかもしれない。
だが初期からこの街に住んでいる住人は、先刻明らかに彼女を見かけても一切声をかけてこなかったのだ。
隣にネザグエンが歩いていたからである。
おそらく彼女はこれまでもお忍びでああして旅人などに声をかけることがあったのだろう。
そうした際に己の立場を告げると相手の反応が変わってしまう為、街の住人にうかつに声をかけぬよう指示していたに違いない。
目の前の娘の背中を見ながら改めて背筋を寒くする。
正体の隠蔽、なによりそしてそれを街の住人に徹底させる指導力。
あの朗らかで明るく優し気な見た目に反し…いや実際の性質もそうなのかもしれないけれど…彼女は恐ろしく知的で、そしてやり手のようだった。
「うん…居館…?」
ずっと考え込んでいたせいで今更我に返り、慌てて周囲を見回した。
確かに居館である。
二重の城壁で守られた、さらにその中にある居館の城内である。
その内に自分が案内されているのだ。
「なんで……!?」
愕然とし、そして動揺した。
無理もなかろう。
居館と言えば城が攻め立てられた時の最後の最後の砦である。
街の最大の重要拠点である。
その中の情報は値千金の最重要機密のはずだ。
それを自らの街…当時は村だろうか…を攻め滅ぼさんとした騎士団の従軍魔導師だった己に見せるだなどとおよそ正気の沙汰とは思えない。
無論従軍していると言ってもネザグエンにはそこまで詳細な軍事知識はない。
魔導的見地から見た対軍戦に適した呪文などであれば一家言あるけれど、城内の防御構造や仕掛けなどにはあまり詳しくないのだ。
だがそれでも魔導師である。
この場の情報を記憶し持ち出す呪文だってあるのだ。
さらに言えば魔導術には〈
当人が知っている場所に瞬間的に移動する呪文だ。
魔導師に城内を記憶されると言う事は、その場所へ一瞬で飛んでくることができると言うことだ。
対象は術者自身だが、同時に荷物扱いで仲間を数人連れてくることも可能だから、強力な戦士や冒険者をこの場所に送り込むことだとてできるようになるのである。
自分の正体をこの街の魔導師が検知して目の前の女性に告げていたとして、そうした危険性を示唆しなかったとは思えない。
なぜ彼女はこんな致命的失態に等しい危険行為をさも当たり前のようにしているのだろうか。
ミエと名乗るこの街の市長夫人の考えが全く理解できず、ネザグエンは混乱した。
(ええ…? ええ…? や、やっぱり色々見ておいた方がいいのよね…?)
わけがわからぬまま、だが魔導師としての好奇心はぬぐい難く、ネザグエンは周囲をキョロキョロと見分する。
ミエの後について石の階段を登り上層階へと向かいながら、とにかく多くの事を覚えておこうと目を皿のようにして観察した。
「あれ、開いてる…?」
と、通路の途中の目立たぬ場所にあった扉が僅かに開いていることに気づく。
そこからそっと中を覗き込んだネザグエンは…小さく息を飲んで扉を開けその中へと滑り込んだ。
…そこには、街があった。
大きな街が。
部屋の中央…いや部屋全体が大きな街の小さな模型で埋め尽くされていた。
部屋の端、壁際くらいしか人の踏み入る場所がなく、その中央に大きな街のミニチュア…先程説明を受けたジオラマが展示? されていたのだ。
「すごい……!」
あまりの見事さに感嘆する。
下町の店にあったのは小さな村だったが、これは規模が違う。
かなりの大都市…そのジオラマを見事に作り上げていた。
あの店の店長はこの街の市長たるオークがこうした模型を好むと言っていた。
ということはここは市長の趣味による私室だろうか。
「それにしてもすごい…!」
城壁に囲まれた大きな街…中央には大きな城が
下町の居住区も見事な出来栄えで、まるで小人がそこに住んでいるかのよう。
ただ…なんだろう。
ネザグエンは己の心象に不思議な感覚を覚える。
なぜこれほど美しく、見事な出来栄えのジオラマ…だったろうか…だというのに、心の内で警鐘が鳴り続けているのだろうか。
市長の趣味をこっそり覗き見ているのが後ろめたいからだろうか。
「おかしいな…全然変なとこないよね?」
そうだ、この城壁も、街並みも、なんとも見事な出来栄えだ。
見ているだけで溜息が出る。
そう、特にこのお堀と南門あたりなんかはよくできている。
たとえばこれが王都ギャラグフにある王城ザエルエムトファヴ城とするなら、ちょうどこのあたりには美味しい菓子の店があって…
「…あれ?」
ある。
菓子の店がある。
可愛らしい装飾の施された菓子店が、そこに小さく鎮座していた。
「ちょっと、まって」
この街並み。
この城の形。
この城壁の囲い方。
「どっかで見たことあると思ったら…これ…?」
気付いた瞬間、全身に鳥肌が立った。
これは王都ギャラグフだ。
ネザグエンが先刻から熱心に見入っていたその精巧なミニチュアの街は…
アルザス王国の首都であるギャラグフ、その城と城下町を見事にジオラマで再現したものだったのである。
「…見ちゃいましたねえ」
背後から、耳元で、声がした。
そしてネザグエンの心臓は、今度こそ完全に凍り付いたのだった。
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