第245話 お気に入り
「なるほど。それならなんとなく理解できます」
「ソウカ」
青年は嬉しそうに頷くが、クラスクはどこか生返事である。
「じゃあ聞きたいことも聞けたし、僕もそろそろ行こうかな」
「ソウカ」
青年は先刻の中年男が置いていった銅貨に手を付けず、そのまま席を立ち、クラスクに背を向けると西門の方へと歩いてゆく。
クラスクはもぐもぐと肉串を頬張った後、彼が置いていった分の小銭もまとめて掴むと懐にしまい、なぜかその男と同じ方向に向け歩き出した。
先刻西門の方から歩いて来たのだから、わざわざ来た道を逆に戻り始めたわけだ。
青年は終始朗らかで、道を歩きながらすれ違う左右の通行人に微笑みかける。
そして鷹揚な足取りでそのまま西門を抜け外に出た。
門番のオーク兵たちは彼にちらりと目を走らせるが特に気に留める風もなく見送る。
…が、そのすぐ後に門を出ようとしたオークを見て目を大きく剥いた。
村長にして族長のクラスクだったからだ。
クラスクは口元に人差し指を当て、彼らに大きな声を出さぬように指示をする。
オーク達は無言のまま慌ててぶんぶんと首を縦に振り彼が門を出るのを首を捻りながら見守った。
「…何の用?」
街道をしばらく進み、村が草原の陰に隠れたあたりで青年が振り返り、背後から己を追って来たクラスクに向け問いかける。
爽やかな笑顔のままだ。
「それハ俺ノ台詞ダ」
クラスクは背負った斧に手をかけて、目を細め目の前の男を睨みつける。
「…お前ハ誰ダ」
「誰って…え?」
怪訝そうに問い返す青年に対し、クラスクは左足を引いてゆっくりと腰を落とす。
一件無害そうな、そして無防備な人間族の青年相手に、明らかな臨戦態勢である。
「誰デワカラナイナラ…お前はナンダ」
「ごめん、何を言ってるかよくわからないんだけど……?」
事態がよく呑み込めないのか、なおも首を傾げる青年。
「お前ハ俺の事を村長呼んダ」
「うん」
「なんデ知っテル」
「え、だって君さっき村の人にそう呼ばれてたじゃないですか」
「呼ばれテナイ」
「いや呼ばれてたでしょ」
「お前の前デハ一度も呼ばれテナイ」
「!!」
ひくん、と青年が笑顔のまま肩を震わせた。
「今日俺が村長呼ばれタのは西門から市場の間ダケ。市場デは一度も呼ばせテナイ。俺がそうさせタ」
クラスクが市場でかぶっていた帽子…あれはクラスクがお忍びであることを示すための装備であった。
外からやってきた人と会話し、村の様子や感想を聞いて参考にする…そのために自らの身分を隠すための小物だったのだ。
クラスクが帽子をかぶっている間は、村の者は彼を『村長』や『族長』と呼ばないようにと言い置いてある。
市場で働いている者達は皆アーリンツ商会の従業員であり、そうした意思統一がしやすいのもこの村の特色と言えた。
「…驚いたな。いつから僕を疑ってたの?」
にこにこと笑ったまま青年が問いかける。
「市場に立ち寄っテお前を見たかけタ時ダ」
「ええ! その時にもう!?」
そしてクラスクの言葉に驚嘆した。
…が、余裕なのかその表情は未だ笑顔のままだ。
「ぼくなにか疑わしいところあった?」
「普通の人間族そんな笑顔しナイ」
「ええ…不自然かな、これ?」
己の顔を指で撫でたり引っ張ったりしながら訪ねる青年。
「その顔自体ハ普通にスル。デモずっトそのママなのおかシイ。顔面にそのツラを貼り付けタダケに見えル。不自然」
目を細め、じり、と右足を擦るようにして前に滑らせる。
いつでも躍りかかって斧を叩きつけられる構えだ。
「それに今ダ。目の前にイルのはオーク。オーク相手ダゾ。そのオークが斧を構えテル。脅えルの普通。腕に覚えガあル奴デモ腰落トス。身構えル。そこデ笑っタママ立ったママおかシイ」
「ああ…!」
命の危機にあるはずなのに、青年の返事には随分と緊張感が欠けていた。
それが余計にクラスクを苛立たせる。
「それトもうヒトツ…お前、さっきあの隣に座っテタ男…殺しタナ」
「!?」
だが余裕ぶっていた彼の表情は、次のクラスクの言葉に一瞬強張った。
そしてその顔からスッと笑顔が消える。
ただ笑顔の代わりに浮かんだのはなんとも奇妙な顔だった。
感心でもなければ感嘆でもない。
警戒でもなければ畏怖でもない。
まるで感情の機微を持たない瞳…
そして能面のような無表情。
それが、笑顔の仮面を剝ぎ取られた彼の顔に浮き出たモノだった。
「アイツダけじゃナイ。お前の周りにイタ市場の連中モ、西門まデ向かう途中に会っタ連中モ、お前ハ悉く殺シ尽くシタ。結果トシテ殺さなかっタダケデ、全員殺し終えテタ。そんな奴怪しム。当タり前」
「へえ…! そんなことまでわかるんだ。すごいな、君…」
青年が全てを言い終わらぬ内、クラスクの斧がぶうんと振り下ろされた。
青年の肩口から斜めに切り裂き、逆胴まで両断せんとする渾身、そして必殺の一撃である。
「ッ?!」
…が、断ち切れない。
青年の肩に突き立った斧がそれ以上深く刺さらない。断ち裂けない。
凡そ人の肉とは思えぬ奇妙な硬さと弾力が、彼の斧による斬裂と断裂を阻んでいる。
もし斧の持ち手がミエだっなたらまるで硬いゴムのようだと表現したかもしれない。
「おやおや、随分と好戦的だね。こんな文明的な村落を造るんだからさぞ理知的なオークなのかと期待していたんだけれど、ひょっとしてブレーンが別にいるのかな?」
青年はクラスクから全力の攻撃を受けているというのに、肩を竦めながらなんとも緊張感に欠ける台詞を吐いた。
まるで攻撃など喰らっていないかのような態度と物言いである。
一方のクラスクは己が手にした愛斧に全力を込めているというのに、その斧刃が相手の肩口から微動だにしない事に戦慄する。
だが彼はそこで飛びのくことも撤退することも考えず、ただひたすらに斧の柄に万力が如き力を込めた。
ここで引いたら負ける。
背中を見せたら死ぬ。
相手の正体がわからぬまま、ただそんなことを強く直感し、痛感した彼は、ここで後ろに下がる選択肢を己の内から追い消したのだ。
必死を、そして決死を己の力に変えるために。
びち、という奇妙な音が響いた。
それはちょうどぱんぱんに荷物を詰め込み張りつめた革袋が、圧迫に耐え切れず今まさに裂けんとする際に放つ破裂の音に似ていた。
青年の肩の皮がむけたのだ。
ちょうど日焼けした皮膚が剥がれるように、クラスクが突き立てた斧の周囲の皮が剥がれて落ちた。
「……なんダ、ソレハ」
斧を持つ手に全力を込め、死力を尽くして足を踏ん張り、脂汗を流しながら全開の殺意で相手を睨みつけていたクラスクは…その肩を見て背筋を総毛立たせた。
黒い。
光を反射せぬ黒い、ひたすらに黒い肌が、漆黒の皮膚が斧の刃先の下で顕わになっていた。
人の肌の下に、である。
そして…一拍遅れてそこから何かが噴き出て来た。
霧だ。
黒い霧である。
斧の下から漏出した血潮が如き漆黒の濃霧が、晴れた青空を汚泥のように染め上げてはすぐに掻き消えてゆく。
「やれやれ…困ったな。まさかただの斧に抜かれるとは思ってもみなかった。この皮、お気に入りだったのに」
すっかり笑顔を消した青年は、無造作にクラスクの斧の刃先を掴む。
その瞬間…クラスクは斧から手を離し全速で後ろに飛び下がっていた。
「やだなあ。まだ殺したりしないよ。君のことは応援してるんだから」
指先でつまんだ斧をぶらぶらとさせながら、だがすぐに興味を無くしたらしく草叢へと放り捨てる。
応援…いつも、毎日、ミエからされているもの。
だがその青年の語るその言葉は、妻にされるそれと異なりクラスクになんの高揚ももたらさなかった。
「…何ガ、目的、ダ」
呻くように、絞り出すような声でクラスクが問う。
「君にも、この村にも、ぜひ頑張って欲しいのさ。今日はその…様子見的な意味で…まあ、炊きつけに来た」
再び貼りついたような笑顔を纏い、肩を竦める青年。
「それじゃ、今日は失礼するね、村長さん。初見と言うことでこの無礼は特別に勘弁してあげよう」
「待テ」
「あれ…もしかして喧嘩売るつもり? ここで?」
「違ウ」
クラスクは総身に汗を滲ませながら、殺意を込めた目でその青年を傲然と睨みつけた。
「俺今お前に勝てナイ。挑めバ負けテ死ヌ。ダからお前が俺を殺しに来ナイ限り今ハお前に挑まナイ」
そして目の前の男を指差して、堂々と己の敗北を宣言した。
「デモこの屈辱忘れナイ。お前全力で殺ス準備すル。ダから覚えテおく。名前教エロ」
しばし硬直した青年は…やがて耐え切れず己の顔面を鷲掴みにしたままくつくつと笑い始めた。
「ハハ……アハハハハハハハハハハ! いやいい! いいねえ! 思った以上に冷静で狡猾でそして大胆だ! ハハハ、それでこそ、それでこそだ!」
しばらく哄笑していた青年は…やがて微笑みを湛えたまま再びクラスクの方に目を向けた。
「では名乗ろう。僕の名はグライフ。グライフ・クィフィキ。意味はそっちで調べてくれ」
「意味…?」
奇妙な物言いに、クラスクは僅かに目を細める。
「せっかくだから君の名前も教えてよ」
「クラスク」
「クラスク…クラスクね。うん、覚えた」
青年…グライフは、にこにこと笑いながら両手を広げる。
「じゃ、そろそろ失礼するよ。このままここに長居すると君らに迷惑をかけちゃうしね」
己の肩口から噴き出る黒い霧を指差しながらそう告げると、グライフは片手を上げてクラスクに挨拶し、そのどろりとした闇に飲まれ、かき消すように消え失せた。
ガタゴト、と音がする。
クラスクの背後から幌馬車が近づいてきていた。
その左右には馬に乗ったオーク護衛隊の面々がいる。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!」
馬どもが驚き嘶き棹立ちとなり、御者とオークどもが驚愕し慌てて馬を止める。
怒りと屈辱に満ちた叫びを上げたクラスクは……荒い息を吐きながら空を、天をまるで仇のように睨みつけた。
その日、クラスクは…
自分達が向かう先に待ち受ける何か、を知った。
そして…今の己のままでは決してそれに届かないことも。
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