第118話 クラスク村の朝
ベッドの中、ゆっくりと目を覚ます。
「そうか…私は…」
キャスは見慣れぬ石造りの天井を見つめながらここがオークの村であることを思い出した。
ただオークの村にいる…と王都にいる者に告げたら受けるであろう様々な誤解が、この村では根絶していた。
とはいえそれで王都の人々を責めることはできない。
なにせ昨日まで、いやこの村に足を踏み入れるまで彼女自身も誤解したままだったのだから。
オークの村で夜を明かした…そう誰かに告げたら確実に想像或いは妄想されるであろう扱いを、キャスは受けていない。
首輪と腕輪を嵌められて、
鎖で壁に繋がれて、
暴力で抵抗力を奪われて、
犯されて純潔を奪われ、
…そして快楽で尊厳を奪われる。
そんな扱いを妄想…もとい想像しなかったわけではない。
いやむしろそうであろうと勝手に決めつけていた。
だが実際にはどうだろう。
広い部屋、広めのベッド、美しい(だがところどころ傷のある)調度、そして並べられた装飾品。
なにより埃ひとつない磨き抜かれた壁、そしてゆき届いた清潔具合。
元教会で前族長の屋敷だった建物を客人用に改装したというが、驚きの扱いの良さである。
…昨日は激動の一日だった。
王命に従いオークの部族を殲滅せんとして、オーク族の知的な連携という見たこともない戦法に敗北し、さらに彼らの族長に一対一で完敗した。
その上彼らははじめからこちらを殺害するつもりがなく、双方死者がゼロという向こうが望んだ通りの結果を一方的に押し付けられた。戦術面でも完全な敗北であった。
だが彼らの族長、クラスクに気に入られ、村の手伝いを求められ、部下達を盾に取られ渋々と了承し、彼に同道することとなった。
けれどいざ村を訪れてみれば果樹園があり、花畑があり、さらには王侯貴族ですら滅多に恩恵に
さらに自分たちの製品を同じラベルを張ることで商標としてイメージを統一させ、市井に流通させているというのだ。
そしてその目的が…オーク族を存亡の危機から救うことと、そのための他種族との融和。
オーク達が地上に現れ群れ為すようになってから未だ誰一人為し得ていない偉業である。
それを彼らは大まじめに目指していた。
そしてその後色々あって誤解も解け、結局キャスはこの村で三カ月間、彼らの協力をすることとなったのである。
(誤解…)
ベッドの上で仰向けになったまま、一人で使うには少し大きめの枕をぎゅっと抱き締め、顔を半分埋める。
昨日やらかした恥ずかしい思い込みや失敗が次々に込み上げてきてみるみる耳先まで赤く染まった。
枕を抱きしめる手の力が一層に強くなる。
「い、いやいやいかんいかん。余計なことを考えるな!」
雑念を振り払うかのように勢いよく起き上がり、壁に掛けてあった愛剣を手にして外に出る。
外はまだ早朝で、オークが一人二人で歩いていたが特にキャスを見張っている様子はない。
ただ物色するように上から下まで彼女を見て、そのまま立ち去って行った。
部屋の外にも見張りはいなかったし、そもそも部屋への武器の持ち込み禁止されなかった。
あまりに無警戒過ぎて逆に色々疑いたくなるレベルである。
「私に逃げられたら確実に困るはずなんだが…信頼されているのか舐められているのか…」
言うまでもない。
信頼されているのだ。
村全体ではわからぬが、少なくともクラスクとミエに関してはそうだ。
それがキャスには嫌と言うほどわかった。
それがわかるからこそ、なんとも逃げ出しにくい。
「だがそういう私の性格を把握した上で誘ったのだとしたら、なかなかに侮れんな」
溜息をついて剣を構える。
一人で虚空に連撃を叩き込み体の調子を確認。
その後対戦相手を想定しての仮想鍛錬。
それから…
…腹が鳴った。
「む…いかんな」
常ならこのタイミングで湯を沸かした副隊長エモニモが声をかけ、彼女と軽く茶を戴く時間である。
二人の時のエモニモはいつもより大人しく、また妙にしとやかで、普段ならついぞ見せぬ恥じらいの表情をしばしば表に出す。
ああいう態度を男の前で取れれば男どもが放っておかぬだろうになぞと彼女は常々考えていたが、口に出したことはなかった。
「…ミエのところに行くか」
物思いに耽っていた彼女は二度目に鳴った腹で我に返り、そのまま族長の家に向かう。
族長の家と言っても他の家より一部屋多いだけの普通の辺境の村の家屋である。
彼女が現在寝泊まりしている来客用の建物の方がよっぽど立派だ。
「あらおはようございます。お早いですね」
「…早すぎたか?」
「いえいえ。もう朝餉の準備はできていますとも。旦那様ー。クラスクさーん。あーなーたー。もう朝ごはんで来てますよー」
「む…」
もぞもぞ、と隣の部屋で音がして、寝室の扉が開いてクラスクが台所に入ってくる。
…全裸で。
「旦那様っ!」
「オウ…!」
真っ赤になって慌てて顔を逸らすキャスと、これまた真っ赤になって怒鳴るミエ。
クラスクはキャスに気づくとばつが悪そうに頭を掻き、すごすごと寝室に引っ込んでもそもそと着替えてから再び扉を開けた。
「キャスの食事はうちでって何度も言ったじゃないですか」
「すまなイ。イつもの癖デ」
「んもう~。次からは気を付けてくださいねー」
「わかっタ。次からは気を付けて下さル」
「それはわかった言い方じゃありません」
「アー…気を付けル」
「はい」
「ハイ」
コントのようなやり取りをしながらお互い頷き合うミエとクラスク。
だがキャスの方は耳まで赤くしながら震え立ち尽くしたままだ。
何故クラスクが全裸でいたのかと言えばミエとは夫婦なのだから当然…という思考と、
彼女は現在身重なのだから直接は難しい。となればそれ以外の様々な手段で…という妄想とが入り乱れて彼女の脳裏の理性を灼熱で焼いていたのである。
「キャスー。キャスさーん。もしもーし」
「ドうしタ、キャス。熱デモあルのか」
「だっ大丈夫! 大丈夫だから触るな!」
慌てて手を払いのけて席に着くキャス。
払いのけられた手を寂しそうに見つめて黙って席に着くクラスク。
動転しているキャスの様子を見ながら口元に手を当て目を細めるミエ。
「ふふ」
「な、なにが可笑しい」
「いえ別に。さ、朝餉にしましょう」
朝食はふかした芋とハーブティー、それにふっくらしたパンと蜂蜜である。
「蜂蜜をパンに塗って食べてください。蜂蜜ならいくらでもありますから」
「いくらでもあるものがまずおかしい…」
言われた通りパンに塗って口にすると蕩けるような甘みが広がった。
絶品である。
この瞬間だけなら王侯貴族の食卓にも勝るとも劣るまい。
「蜂蜜もだがこのパンも相当な美味さだな。王都の王宮御用達のパン屋にも負けていまい」
「ありがとうございます! そう言っていただけると自信になりますわ。このパン、蜂蜜から取れた酵母で膨らませてるんです」
「酵母…?」
「小麦はここでは取れないですから外からのもので、それだけが残念ですけど…」
「あとは牛乳も欲しいところだな」
「牛乳! あー家畜もいいですねー。今度頼んでみようかしら…でもこの世界…じゃなくてここの乳牛の品種ってどうなってるんだろ…」
その後も三人の会話は盛り上がり、朝食が次々に消費されてゆく。
そしてキャスが蜂蜜の採取に興味があるということで、今度の蜂蜜採りに同道する約束を交わしたところで朝食を終えた。
「さ、ではお仕事の時間です! 旦那様、キャスさん、行ってらっしゃいませ! 頑張ってくださいね!」
「行っテくル」
「はい。ではまた後程…」
そうしてコルキの鳴き声と共に二人を送り出したミエは…
腕まくりをして皿の片づけと洗濯の用意を始めた。
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