第117話 家族の晩餐
「旦那様、お帰りなさいませ」
コルキの鳴き声と共に帰宅したクラスクの首に腕を巻きつけ、伸びをして彼の頬に接吻するミエ。
それを見ながら思わず赤面してしまうキャスバスィ。
さっき見たはずなのに、妙に意識してしまってどうにも気恥ずかしい。
「あ、すいませんキャスバスィさん。ついいつもの癖で」
「いえ、お気遣いなく」
クラスクから一歩離れて恥じらうミエ。
「さ、旦那様。晩御飯の用意できてますよ」
「アー、それなんダガ…ミエ、キャスの分も…」
「はい。もちろん御用意してあります」
「してあルの!?」
申し訳なさそうに言い出したクラスクに笑顔で答えるミエ。
言われてみれば確かにテーブルには皿が三組並べられている。
「俺言っテなイ」
「ハイ聞いてません。でも必要ですよね? キャスバスィさんはあらかじめ約束してお連れした方でもないですし」
「ソウ必要…」
「あと泊る所もないでしょうから手配しておきました。本当はこの家にお泊めしたかったのですがうちは狭いので教会…ええっと元族長さんが住んでらした建物を村の
「オオ…!」
瞳を輝かせてぶんぶんと頷くクラスク。
なんでいつも自分の嫁はこちらの言いたいことを全部わかってくれるのだろうと感動しながら。
「そんなわけでこちらからお招きしたのにバタバタしてほんとすいませんキャスバスィさん。村には食堂がないので、朝餉と夕餉は不調法で申し訳ありませんがこちらで摂って戴いてもよろしいでしょうか?」
「あ、いえ、御丁寧に痛み入る。奥方様」
おそらく彼らが森で剣の稽古をしている間に身重の体で準備を整えたのだろう。
行き届いた配慮にキャスバスィはひたすら恐縮した。
「あらやだそんな奥方様だなんて…」
頬を染め恥じらいながら膨らんだお腹を撫でるミエ。
「それじゃよそっちゃいますね。コルキ! 貴方の分も今から用意しますからねー」
「ばうっ!」
狼というよりは犬のような返事が届き、家の外から期待に満ちたへっへっへ…という息遣いが聞こえてきた。
ちなみにこれをしばらく放っておくと寂しそうにくぅんくぅんと鳴き始めるが、ミエは躾の時以外そういうことはしない。
「はいどうぞ。ありあわせのものですいませんが…」
「おお…!」
ミエが用意したのは香草のスープと豚…もとい鹿肉の野菜炒め、それに根菜や芋をふんだんに使った猪鍋とフルーツの盛り合わせ、そして蜂蜜酒である。
なかなかの御馳走だ。
「素晴らしい。全部この村で?」
「いえ村にある畑が小さいからあまりお野菜が取れなくって…香草類は森で採れるんですけど。なので野菜類は外から持ってきてもらってます。保存の魔術? でしたっけ? って便利ですよねえ。葉物まで常温で鮮度そのまま運べるんですから」
「なるほど…む、美味い」
「ありがとうございます。外の方に言っていただけると自信になりますわ。主人はなにを出しても美味しいしか言わなくって…」
「ウマイ、ウマイ!」
「ほら。もぉ~」
不満そうに言いつつもその表情は柔らかい。
キャスバスィは何か尊いものでも見ているかのようにそれをじっと見つめてしまう。
「? どうかなさいました?」
「あ、いえ、なんでも」
キャスバスィにとっての家族の想い出は幼いころに途絶している。
物心ついた後に覚えているのは父の姿だけで、彼はキャスバスィを愛してはくれたけれど、戦争で失った母の復讐に駆られ、自らも戦場に赴き、そして彼女が幼いうちに帰らぬ人となった。
だからキャスバスィは長い間家族というものを知らずにいた。
いや知っていたはずだがはずなのに忘れていた。
かつて仲の良い友人は一人だけいたけれど、あれを家族と言っていいのかどうかよくわからない。
…彼女はハーフエルフである。
人間なら同じ年頃の娘が幼い頃に親と死別したとて十数年。
だが彼女が父を失ってから既に60年以上の歳月が経過していた。
それは色々と忘れようというものである。
そのすっかり忘れていた家族を…
彼女は、その日久しぶりに思い出した。
二人が、自分の名をちゃんと呼んでくれたからだろうか。
「お口に合いませんでしたか?」
「いえ、決してそのようなことは」
ついセンチメンタルな気分に浸ってしまっていたキャスバスィははっと我に返り慌てて取り繕う。
だがどうにもその格式ばった言動がミエにはお気に召さなかったようだ。
「どうにも格式ばったというか壁がありますよねキャスバスィさんは」
「そ、そうか?」
「まあオークの村ですから壁を作られても仕方ないと思いますけど…それでもやっぱりお客としてお招きしているんですからもうちょっと親しくなりたいです」
「いや…すまん。元々あまり人づきあいは得意な方ではなくてな」
これは事実である。
彼女は騎士としてはかなり知り合いが多い方だ。
だがそのほとんどは上下関係でのみ構築されている。
上司や部下は礼儀作法さえ学べば相手ができるのだ。
逆に言えば彼女は同年代・同性代・同輩といった立場の近しい友人を殆ど持ったことがない。
いや、たった一人だけいたけれど。
彼女とはしばらく会っていない。
会えていない。
「それじゃあまず他人行儀な呼び方をやめましょうか」
「む…?」
少し物思いに耽っていたキャスバスィはミエの言葉に怪訝そうに面を上げた。
「私の事はミエとお呼びください。そのかわり私はキャスバスィさんのことキャスさん、って呼びます」
「ミエ…?」
「はい、キャスさん」
嬉しそうに顔を綻ばせるミエ。
キャスバスィ…いやキャスは目を二、三度瞬かせ、妙にこそばゆい感覚に襲われていた。
「いや…なんとも不思議な感覚だな。名前をちゃんと呼ばれないことはよくあったが、あだ名のようなもので呼ばれた経験はあまりなくて…」
「…あら、さっき旦那様がお呼びしてましたよね? キャスって」
「ぶほっ」
食べかけの野菜炒めを半分噴いた。
「うン。呼んダ。イっぱい練習シタケド、キャスの名前ちゃんト呼ぶの難シイ。ちゃんと呼べなイなら通称の方ガイイト思っタ」
「ああそういう経緯で…私はてっきり二人が距離を縮められたものかと」
「いやいやいやいや奥方様私達は決して! 誓って! 何も!」
「ミーエーでーすー」
「あ、ああすまないミエ」
ぶー、と頬を膨らませ唇を尖らせて抗議するミエに謝罪するキャス。
と、そこに外からどたどたと駆けてくる足音とコルキの唸り声が響いて来た。
「グルルルルルルル…」
「アアアアアア吠エルデネーダヨ!」
「…コルキ、めっ」
「くぅ~ん」
外から何か会話が漏れ聞こえ、直後に玄関の扉を勢いよく開いてオーク族が一人飛び込んできた。
いや正確には浴衣を着た娘を小脇に抱えている。
先刻公衆浴場にいたエルフの少女、サフィナである。
「タタタタタ大変ダヨ兄貴ィィィィィィィィィィ!」
「ワッフ」
「ア、族長ダッタ。大変ダヨ兄貴ィィィィィィィィィィィ!」
「ワッフ」
コントのようなやり取りをしている二人の横で、オーク…ワッフの小脇に抱えられたサフィナがミエにびっ、と片手を上げて挨拶し、ミエもまた手を上げて挨拶を交わす。
どうやら人妻同士? で仲がいいようだ。
「デ、なにが大変ダ」
「ソ、倉庫ノ酒ガ減ッテルダヨォ!」
「出荷前なのにカ。まタ誰か飲みやがっタナ…」
舌打ちしながらクラスクが腰を上げる。
「ミエ、すまなイガ…」
「はい。キャスさんの相手をしてますね」
「オオ…頼ム」
また何にも言ってないのに…と感心したような顔でミエを見た後、クラスクはワッフに続いて外に出る。
いやその歩幅は明らかにワッフより大きくて、たちまち彼を置いて先に行ってしまった。
そして再びワッフに抱えられたサフィナは…視界から消え去るまでずっとこちらに手を振っていた。
すっかり日が暮れた家の外で、コルキが見送りとばかりに幾度も吠える。
サフィナとクラスクの背中にずっと手を振っていたミエは、やがて彼らが見えなくなると再び席に戻った。
キャスは昼にたっぷり身体を動かして空腹だったこともありもくもくと食事を平らげている。
「それで…キャスさん」
「はい」
「旦那様の事はどう思われます?」
むせた。
「えふっ! えふっ! ど、どう、と言うのは…?」
「いえ、ですから
ふいた。
「えほっ! えほっ! そ、そ、そそのようなことはっ! 決して! 考えたこともっ!」
話題の主の嫁本人に詰問されて大慌てで手を振り否定する。
彼女からすれば嫁から夫への
必死に否定するのも当然であろう。
「…否定する割には過敏に反応しますねえ」
「あ、いえ、それは…っ」
耳先まで赤くなって小さくなる。
だが彼女が過敏に否定になるのも仕方ない。
ミエが先程用いた言葉はエルフ語だ。
エルフ語の
むしろ『伴侶』や『半身』の方が近いかもしれない。
「いえ別に責めているわけではなくですね」
「はい…?」
けれど、ミエは食事をしながら自らの腹を静かに撫でる。
「オーク族はそもそも一夫一婦制ではないですし、私も今こんな体ですから、キャスさんさえよろしかったらこちらとしては大歓迎なんですけど…って言いたかっただけなんです」
「あう…」
「でもキャスさんの反応でだいたいわかりました! さ、食事を続けましょうか!」
にこ、と微笑むミエの前で…
だいたいわかられたキャスは、耳先まで真っ赤になって俯いていた。
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