第116話 風呂上がり、彼女の名
「おお、風呂から出る時は忘れんなよ!」
慌ててキャスバスィが風呂場から飛び出ると、中からゲルダの声がする。
意味が分からず立ち止まると、扉が半分開き浴室から小柄な少女がひょこっと顔を覗かせた。
エルフの娘である。彼女と違って純血のエルフ族のようだ。
キャスバスィはすぐに気づいた。村の入り口で歓迎の言葉を言ってくれたあの少女である。
外見だけ見るとオークの連れ合いとしては少々幼すぎる気がするが、娘か何かだろうか。
(いやいやいや…この年齢の娘のエルフなどありえないだろう)
のぼせているのか思考が変な方向に飛んでいる。
キャスバスィは首を振って己を律した。
「お風呂から出たらあそこの部屋で置かれてる桶の水をかぶるの…そのあとタオルで体拭いてユカタ着る」
「タオ・ル…?
「
知らない単語なので思わず聞き間違えてしまったキャスバスィの言葉を、エルフの少女が否定する。
エルフ語である。
「ユ・カタ…?」
「それ」
エルフの少女の視線の先には壁にかかっている衣服があった。
その脇には台の上に長い布が何枚か重なっている。
どうやら水浴びをした後あの布で体を拭き、その後あの服を着ろ、ということらしい。
ユカタと呼ばれたその衣服はかなり生地が薄い。
そして腕を通して着ても前がそのまま開いてしまう。
それを帯で締める造りのようだ。
「後で洗って返してくれればいいの」
「…わかった」
「おういサフィナや、いつまでも扉を開けっぱなしにするでない! 湯気が逃げる!」
中から先程エルフの少女…サフィナと言うらしい…と一緒に入って来た子供の声が響き、サフィナはぺこりと頭を下げて首を引っ込め、扉を閉めた。
暫くすると中からジュワァ!と高い音が響く。
新しい焼けた石に水をかけたのだろう。
キャスバスィは言われるがまま扉付きの個室で水を浴び、タオルと呼ばれた布で体を拭くと、ユカタと呼ばれる衣服を着る。
そして己が着ていた服を畳んで、両手に抱えて外に出た。
「む……!」
水浴びして体を冷やしたはずなのにじんわりと汗を掻く。
どうやらあの形式の風呂には発汗を促す効果があるようだ。
けれどユカタの薄い生地がその汗をみるみる吸って、荒い生地の隙間から風が吹き込み火照った体を冷ましてくれる。
「これは…なかなか…!」
風呂の中もだいぶ気持ちよかったけれど、風呂上がりのこの感覚もなかなかの快味である。
キャスバスィは騎士隊の部下達にも教えてやりたい、などとついいらぬことを考えてしまう。
「ふう、体も頭もだいぶ冷めて…」
「もう出タのカ。早イナ」
「ひゃうっ!?」
背後から声を掛けられ驚きのあまり思わず奇声を上げてしまう。
そしてクラスクの声と姿を確認し、己が出した声のみっともなさに今更気づき、冷めたはずの頭がみるみる火照ってゆくのを感じた。
「女ノ風呂もっト長イト思っテタ。女待たせル男良くなイ。すまなイ」
「い、いや、べ、別に気になどしていない。だだ大丈夫だ!」
「そうカ。それはよかっタ」
クラスクの態度は変わらない。
挙動不審なのは目下一方的にキャスバスィの方である。
先程のゲルダの台詞でせっかく剣の稽古をして忘れていた己の勘違いを殊更に思い出してしまい、激しい羞恥が襲いかかっているのだ。
(わた、わたっ、私は何を、こんな…っ!?)
一度意識してしまうと止まらなくなる。
クラスクの方に目を向けると彼も同様にユカタを着ていて、火照ったからだと厚い胸板が否が応でも目に飛び込んでくる。
それだけでキャスバスィは耳先まで赤くなって軽い眩暈がした。
「…大丈夫カ? 風呂でのぼせタカ?」
「わひゃうっ!?」
ずいと身を乗り出したクラスクのごつごつとした右手が彼女の額に当てられる。
見る間に顔を火照らせて額から湯気を噴き出すキャスバスィ。
おかしい。
おかしい。
なぜ自分はこれほど動転しているのだろう。
舞い上がってしまっているのだろう。
自分自身が制御できず、キャスバスィは混乱した。
村に来るまでずっと恥ずかしい勘違いをしていたから?
部下達に恥ずかしい誤解をされたから?
ゲルダに指摘されて色々思い出してしまったから?
無論それもある。
でも…それだけ?
本当にそれだけ?
わからない。
わからないけれど…先の理由だけではこれほどまでに見苦しく動転しない気がする。
なら一体なぜなのか。
なぜ自分がこれほど狼狽えているのか。
その理由のその先を考えることを…なぜ自分は拒絶しているのか。
「…本当に大丈夫カ?」
「……ああ、問題ない」
急速に気持ちが落ち着いてゆく。
まるで火照った体が夜風に吹かれ冷めていくかのようだ。
「すまないな。気を使わせた」
クラスクの言葉を受け流し、多少乱れた浴衣の胸元を整えて帯を締め直す。
自らの心を引き締め直すかのように。
「それならイインダ。あーキャスバスイ…違ウナ」
クラスクは己が告げた彼女の名に自らダメ出しする。
「あーキャスバシィ…違ウ。キャスバシー…デモナイ…エー…」
どうやら彼は発音違いを指摘されてから剣の稽古の時以外ずっと彼女の名前の発音を練習していたものらしい。
「無理をするな。私の名はエルフ族だった母が名付けた。エルフ語由来だ。元々エルフ語は他種族には発音しづらい」
「ソウカ」
「実際人間の街ではまともに呼んでもらった記憶はほとんどないからな。だから気にする必要はないさ」
「気にすル」
「うん?」
「俺が気にすル」
キャスバスィの気遣いを真っ向から拒絶したクラスクが、その上背でキャスバスィを見下ろす。
目の前にある胸板に消し去ったはずの動悸が再び甦る。
「名前大事。人間もエルフもオークも、相手のコト名前デ呼ぶ。スゴイ。アト名前付けてくれた相手大切。なら名前も大切。ちゃんト呼ばなイト駄目」
「……っ!!」
キャスバスィははっとした。
エルフ族の、母が付けてくれた名前だった。
物心つくかつかぬかの内に母は亡くなってしまったけれど。
それでも、優しい女性の声で自分の名前を呼ばれたことを今でも覚えている。
とても美しい発音で、とってもキレイな名前だな、と幼心に思った事を覚えている。
自分の名前は綺麗だな。
そう思って、とても嬉しかったのを覚えている。
人間族の父が呼ぶのに苦労していた名前だった。
幾度も幾度も間違えて、それでも諦めず練習していたのを覚えている。
やっとちゃんと発音で来たときの心の底からの嬉しそうな顔を覚えている。
嬉しさのあまり抱き着いてきて、頬ずりされて、子供心に迷惑だったのを覚えている。
けれど嬉しそうに何度も何度も自分の名前を呼ばれて、
それがどこか誇らしかったのを覚えている。
「キャスバス! 違ウ! キャス…きゃす…?!」
ぶつぶつ呟いていたクラスクがハッと何かに気づいて顔を上げた。
「キャスバスィ!」
「~~~~~~~っ!!」
自分を見つめて、自分の名を呼ぶ。
懸命に、真面目に、ひたすらに。
自分の名前を呼び続けて。
この村に来て二人目の、自分の名をちゃんと呼んでくれた人。
美しい発音でその名を呼んだミエはどこか彼女の母を思い起こさせ、
そして必死にその名を練習したクラスクはどこか彼女の父を想起させた。
それがどこか、とても、そしてどうしようもなく嬉しくて。
「…ありがとう」
キャスバスィは、エモニモや隊の騎士達が見たら驚愕しかねない程の優しい笑顔で、クラスクに微笑んだ。
「………………」
「…どうした」
キャスバスィの顔を見つめながら、しげしげと彼女の表情を観察するクラスク。
見つめられとどこかこそばゆくって、彼女は少し頬を染めて視線を逸らした。
「なあ」
「あ、ああ…」
心臓の動悸が早くなる。
だが先程のような興奮と動揺によるものとは少し違う。
高揚と…そして何かの期待が込められた鼓動。
頬を染め上目遣いで、少しだけもじもじとクラスクを見つめるキャスバスィに…
クラスクは真顔で問いかける。
「発音大変ダカラ、キャスって呼んデイイか」
「私の感動を返せ」
色々と、台無しであった。
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