第109話 族長夫人
「着イタゾ」
「な……!」
クラスクの後に続いて踏み入れたのは…元人間の集落を改造したもののようだった。
その第一印象は…明るさ。
陽光を燦燦と受け、村全体が賑わっている。
色とりどりの周囲の花畑が、そこに鮮やかさと温かさを加えていた。
単なる色彩の問題ではない。村全体の雰囲気というか、空気自体が明るく感じられる。
これまで彼女が踏み潰してきたどのオークの集落とも決定的に異なる…それは眩しい程の明るさである。
井戸の隣で女性達が水汲みの傍ら立ち話に興じつつオークの赤子に乳をあげている。
広場では桶に入れた早摘みの葡萄の実を、スカートの裾をたくし上げた幾人かの女性が楽しそうに踏み潰している。
村の奥の方にある大きな建物の左右から、オークと女性が出て来て落ち合うように合流し、談笑しながら並んで歩く。
体から出ている湯気、上気した顔、とすればあの建造物は公衆浴場かなにかだろうか。
王都ですら庶民が風呂に入るのは一週間に一度。
田舎なら一カ月に一回程度のことすらある。
それが当たり前のように利用できる農村など人間の村でも聞いたことがない。
これで村にいる娘たちが妙に健康的で色艶が良い理由がわかった。
わかったのだが…
それがオークの集落に存在している理由がさっぱり理解できない。
「あ、
「
村にいる女性達、そしてオークどもから口々に声を掛けられるクラスク。
彼ら、彼女たちの声に怖れや暗さが微塵も感じられないことにキャスバスィは驚いた。
村の者達が話している言葉もまた興味深い。
おそらくオーク語なのだろう。
つまりこの村の娘たちは皆オーク語の教育を受けているのだ。
暴力と略奪を
ゆえに彼らが他種族の言語を学ぶことはなく、同時に他の種族もまたオーク語を学ぶ契機が存在しなかった。
ごくごく稀に存在する、人間族の親と暮らしていたハーフオークが通訳を兼ねる程度である。
だがこの村の娘たちは皆オーク語が話せる。
このままでも国が通訳や戦場での一流の案内役として雇えるレベルではないか。
教育…一体だれが?
いや他にいようはずもない。
オーク語を教えられるのはオークだけだ。
けれどなぜオーク族が本来彼らにとって囚人や奴隷同然であるはずの女性達をこんな自由にさせているのか、さらにオーク語まで学ばせているのか、となるとさっぱり理解できぬ。
一体何がどうなってこんな事が起こり得るのだ…?
キャスバスィは混乱と好奇心とで頭がどうにかなりそうだった。
クラスクに挨拶した村の者達は、皆興味深そうに背後にいるエルフ族の娘に目を向け、じろじろと観察する。
「あら、今夜はお楽しみですか?」
「縄で縛るとか…そういうのは最近流行らないのでは?」
「緊縛プレイ…アリカモ」
「こら! アンタ!」
「ゴメンヨ母チャン!!」
オーク族の男と人間族の娘が始めた掛け合いに周囲の村人がどっと笑う。
そんな和やかな雰囲気に、キャスバスィはすっかり毒気を抜かれてしまった。
「ダからそうイウンジャねえ。後デ話す」
「「「はーい」」」
「「「へーい」」」
クラスクが周囲に集まる村人(?)達を片手で制し、彼らが素直に道を開ける。
オーク同士や女性同士だけでなく、オークと女性とが並んで立ち話をしている光景がキャスバスィにはなんとも新鮮に映った。
「サ、ココダ」
クラスクが案内したのは他の家よりやや大き目の建物だった。
外見から察するに部屋が一つ多く、その部屋の壁だけ新しい。
おそらく増築したのだろう。
「ばうっ!」
「おお、コルキ。エサは少し待テ」
「狼か!? 珍しいな」
家の外には首輪を付けられ鎖に繋がれた狼がいた。
コルキと呼ばれたその狼は尻尾を大きく振りながらクラスクに飛びついてくるが、鎖がギリギリ届かず後ろ脚だけで立ち上がって舌を出しながら幾度も吠える。
随分と彼に懐いているようだ。
これなら殺す必要もあるまい。
などとキャスバスィはやや物騒なことを考える。
クラスクは手を伸ばしコルキの頭と腹を撫でつけた。
それで満足したのか彼はその場をくるくる回り、ぺたんと座り込むと大きくばう! と一声鳴く。
キャスバスィから見るとすっかり成長した大人の狼のようにも見える。
ただ鼻の近くに伸びている黒い線のようなものだけが多少気にかかった。
「いや…まさかな」
「何ガダ」
「いや、なんでもない。気のせいだろう。奴らがこんなに懐くはずがないからな」
「うン?」
はぐらかすようなキャスバスィの返事に少し怪訝そうな顔のクラスクだったが、そのまま玄関の扉を開ける。
キャスバスィがコルキと呼ばれたその狼の横を通り抜ける際片手を上げて挨拶すると、彼は尻尾を振りつつも大人しく座ったまま「ばう!」と応えた。
人慣れしているのはいいが初対面の相手にこれでは見張りとしての役には立つまいな…などとキャスバスィはいらぬ心配をしてしまう。
「今帰っタ」
「旦那様! おかえりなさいませ!」
とたとたと歩いて来た娘がクラスクの首に腕を回し互いに口づけを交わす。
目の前で繰り広げられる濃厚な愛情表現に思わず赤面してしまうキャスバスィ。
「ふふ、お客様の前ですいません」
クラスクの首に巻き付けた腕を離し、彼から一歩離れた女性を観察したキャスバスィは、彼女のお腹がやや大きくなっていることに気が付いた。
どうやらこのオークの子を身籠っているようである。
「こんななりですからあまりお構いもできなくて…」
「ミエ、あまり無理をスルナ」
ぺこりと頭を下げるミエと呼ばれた女性、彼女を気遣うクラスク。
その姿はどう邪推しても仲のいい夫婦にしか見えぬ。
「平気ですよう。あまり動かないでいるとかえってよくありませんから。さ、こちらへどうぞ」
微笑みながら二人を先導するミエ。
案内された先は応接間だった。外から見て増築されたらしき場所である。
「トりあえず座っテクレ」
「もう縄も外しますねー。痛くなかったですか?」
「いや…大丈夫だ」
細い指先で丁寧に縄を解くミエ。
完全に自由になったというのに…キャスバスィの頭からはそこからどう脱出しようとか、このオークを打ち倒そうとかそういう発想が完全に吹き飛んでいた。
それほどにこの村で受けたカルチャーショックが大きかったのだ。
どっかと一人用の椅子に腰かけるクラスク。
テーブルの対岸のソファに腰かけるキャスバスィ。
そのソファは見た目もなかなか綺麗な上に、身を沈めてみると思った以上に座り心地がよく、彼女を驚かせた。
一体今日幾度目の驚きだろう。
キャスバスィはついそんなことを考えてしまう。
「改めて自己紹介すル。この村の族長、クラスクダ」
「族長夫人、ミエと申します」
「王国翡翠騎士団第七騎士隊隊長、キャスバスィだ」
キャスバスィの自己紹介を聞いてミエが手を合わせ瞳を輝かせる。
「まあ、王国騎士団! ずいぶんと凄い方ですのね」
「そうでもない。ただの間に合わせさ」
騎士、と聞いてミエの瞳が輝く。
彼女は小声で「じゃあ馬の話は今度するとして…」などと口の中で呟くが、これは流石にキャスバスィに流れるエルフの血を以てしても聞き取ることはできなかったようだ。
「それでも御立派だと思いますよ、キャスバスィさん」
「うん…?」
ミエの言葉に少し上体を起こし、意外そうな表情で彼女を見つめる。
「如何なさいました?」
「いや…エルフ族以外に初見で名前をちゃんと呼ばれたのは初めてでな」
「ああ…確かに少し難しい発音かもですね」
さらりと己の名を正確に呼んだその族長夫人に瞠目するキャスバスィ。
その綺麗な発音はどこか彼女の名付け親である母を思い起こさせた。
幼いころに亡くなって、顔もよく覚えていない母ではあるけれど。
「ん…なにか変なのカ?」
「ああ、この方のお名前が少し発音しづらいもので」
「エー…さっき言っテタ奴ダロ、アー、キャスバシー?」
「違う」
「違います」
女性陣から一斉にツッコミを入れられるクラスク。
「エ?! 違ウ?! さっき確かにそう言っタ! 俺聞イタ!」
「この方のお名前はキャスバシーじゃなくてキャスバスィです。
「ああ。えー、聡明な御夫人ですね」
「まあそんな…お褒めに預かり光栄ですー…ふふっ♪」
嬉しそうに口元を手で隠す所作が愛らしい。
なんとなく女性同士で通じ合うものがあったらしく、二人の表情が柔らかくなる。
「アー…キャスバシ?」
「キャスバスィだ」
「オー…キャスバス?」
「後退してる後退してる」
「???」
混乱するクラスクが可笑しいのか、キャスバスィの口元が綻ぶ。
そしてそんな彼女のリラックス具合を見て、ミエもまた微笑んだ。
二人の肴とされているクラスクは…腕を組んで首を捻り必死に不慣れな発音に舌を転がしていた。
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