第81話 ミエの懊悩
その朝ミエが目を覚ました時、クラスクは既にいなかった。
きっと鍛錬に余念がないのだろう。
彼が陰で努力を怠らぬオークであることをミエはよく知っていた。
なにせ自分の夫なのだから。
もしかしたらラオ達と外で打ち合わせでもしながら食事をするのかも…と思いつつ、だがクラスクの分も朝食を作る。
というか既に手癖になってしまっているらしく、放っておいても勝手に食事を二人分作ってしまう自分に少し驚く。
もう少し、もう少ししたら一人で食べよう。
そんなことを考えながら椅子に座り彼を待ち続けるミエの体が、時折微かに揺れる。
だって不安なのだ。
怖いのだ。
今日の結果が。
その後に訪れる結末が。
昨晩は彼を落ち着かせるためにあんなことを言ってしまったけれど…
ミエ自身が不安でないわけがないのである。
この村が望まぬ方向に変わってしまうのが、怖い。
せっかくできた友人達を亡くしてしまうかもしれないのが、怖い。
この村で積み上げてきたものを全部失ってしまうのが…怖くてたまらない。
でもそれもこれも全部合わせてもなおそれより怖いのが、夫を…クラスクを
だって決闘である。
命を懸けた戦いなのだ。
自分にそれを止める力はない。
戦ったら勝てないと彼は言った。
ミエはいつだってクラスクを、そして彼の言葉を信じてきた。
そして彼は己の言った事をなんだって実現してのけてきた。
だから今回も彼の言葉を信じるというのなら…彼はもうすぐ死んでしまう。
嫌だ。
嫌だ。
ああ嫌だ、嫌だ、嫌だ!
全部、全部捨てて。
何もかも捨て去って。
私と一緒に逃げてほしい。
もしかしたら…彼はその願いを聞いてくれるかもしれない。
ふとそんなことを考えてしまう。
彼の前で跪いて、彼にしがみついて、みっともなく泣き叫んで必死に訴えたなら、或いはその懇願を聞き届けてくれるかもしれない。
そんな想いがぐるぐるとミエの中に渦巻いている。
でもできない。
それだけはできない。
だってそれは私の都合だ。
ミエは大きくかぶりを振って、己の内にあるそんな願望を否定した。
それにそんな身勝手なエゴで、あの人を裏切らせたくない。
彼が信じている彼自身を…彼の手で裏切らせたくない。
いつか誰かが言っていた言葉を思い出す。
確か「母である前に、妻である前に、女でありたい」だっただろうか。
ならきっと私は違う。
そうミエは思った。
自分は女である前に彼の嫁でありたいのだ。
彼が誇れる、立派な妻でいたいのだ……!
「なにをシてイル」
「きゃーっ!?」
いつの間にか椅子から立ち上がり、なぜか右腕を高く掲げているミエ。
それを玄関から怪訝そうな顔で覗き込むクラスク。
ミエは真っ赤になってぴょこんと椅子に座り直した。
「ちょ、朝食御入用ですかっ?!」
「喰うから戻っタ」
「で、ですよね!」
慌てて立ち上がっていそいそとクラスクの分をよそう。
今やこの家の定番料理となったポトフである。
まあシャミルやサフィナのおかげで以前に比べ野草と香草のレパートリーはだいぶ増えたけれど。
決戦当日だというのにいつも通りの…だが普段より言葉少なめな朝食を摂る二人。
だが特に険悪や消沈といった類のものではなく、ただただ静かな食卓だった。
「ジャあ、俺ハそろそろ出ル」
「はい。行ってらっしゃいませ」
「…ミエも来ルか?」
少し迷った後のクラスクの誘いに…けれど彼女は笑顔で首を振る。
「私は後から。妻は…夫を送り出すのが仕事ですもの」
「そうカ」
「頑張ってくださいましね」
「…アア」
いつものように≪応援≫し、夫の首に腕を回して頬に接吻する。
クラスクはそんな彼女を強く抱きしめて…
「行っテくル」
…そしてそっと離し、ゆっくりと彼女に背を向けた。
× × ×
「はぁ…」
そわそわしながらも家の仕事をなるたけゆっくり済ませて、
それでも決闘までまだ若干の時間はあった。
ミエは手持無沙汰となってこてんとテーブルの上に突っ伏す。
ゲルダたちを誘いに行こうとしたけれど、流石に今日は自分の連れ合いと一緒に出ているだろう。
だから今から自分一人で夫の決闘を見に行かなければならない。
行きたくないとは口が裂けても言わない。
もう夫の戦いを見守ることと、全力で応援することは決定事項である。
ただそれはそれとして足が重いのも確かだ。
ミエは自分の中の何かに踏ん切りをつけようと手足とばたつかせ、腹に力を込めて…
そして、村の中央で轟いた不気味な咆哮のような叫びにぞくり、と背筋を凍らせた。
(なに…?!)
がた、と身を起こし、取るものも取らず慌てて家から飛び出す。
熱狂的な歓声が収まったと思ったら、次に大きな大きなよく通る
(え? 族長? 他の村の?)
一体何が起こっているのだろう。
不安と嫌な予感がみるみる膨れ上がってゆく。
急げ。
急げ。
少しでも早く。
これは、絶対に、自分が聞いておかなければならない奴だ…!
…そして、ミエが村の中央に辿り着き、オーク達を左右に掻き分けて(正確には彼女にオーク達をどかすだけの力があるわけではない。オーク達がミエだと気づいて自らどいてくれたのだ)、その人垣の一番内側に顔を出した瞬間…
族長ウッケ・ハヴシがそれを告げた。
戦争のはじまりを。
「そんな…!」
ミエは思わず口に手を当て一歩後ずさる。
その背が他のオークに当たりすぐに止まったが、ミエはそれすらも気づかない。
いけない。
それはいけない。
ミエはこの村で様々なオーク族の風習を学んだ。
無論隊商の襲撃はいけないことだ。異種族の娘を攫うのも断じてやめさせるべきである。
けれどそれらはオーク族の種族特性を考えれば種族の維持のため、繁栄のためとギリギリ説明がつく。言い訳できるのだ。
ミエはそう見極めたからこそ村の改革に乗り出したのだし、それなりの成算があった。
もしクラスクが無事この村の主導権を握れたなら、少しずつ襲撃を減らしていって、かわりに村に産業を発展させ、そして魅力的な村づくりをすることで他種族を呼び込んで友好を結んで…
やりたいこと、やるべきことは山積みだけれど、おおむねそういう流れを作るつもりで動いていた。
だが戦争はダメだ。
人が死ぬ。
今とは比べ物にならないくらいたくさんの人が死ぬ。
人間たちの、いやオーク以外のすべての種族の憎悪がオークに向いて、
そして同胞を失ったオーク達の憎悪もまた他の種族へと向かうだろう。
もし一度でもそちらの方向へ向いてしまったなら、きっと関係を修復する機会を永遠に失ってしまう。
取り返しがつかなくなってしまう。
それだけはなんとしても阻止しなければならぬ。
でも一体どうすればいいのか…ミエにはそれがわからない。
この場でオーク族を従えるためには力が必要だ。
即ち物理的な武力や暴力である。
だが彼女にはそれがない。
どんなに知識をかき集めても知恵を絞っても、その細腕ではこの広場の熱狂を鎮めることができない。
力で収める
悔しい。
悔しい。
せっかくここまで来たのに。
さあこれからというところまで漕ぎつけたのに。
こんな理不尽な暴力で、全部、全部失ってしまうのか……!
唇を強く噛み、己の無力さを噛み締めて、ミエは泣きそうな顔で俯いた。
「フン、そりゃあお前ガ族長のままダったらっテ話ダロ?」
その時…ミエの耳に声が届いた。
彼女の折れそうな背中を力強く支える救いの声が。
はっと顔を上げると、そこには…
戦争の開幕を告げた巨漢のオークに己の斧の切っ先を突き付けた…
彼女の夫、クラスクの姿があった。
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