第29話 人妻銭湯

「熱いから気を付けてくださいねー」


そう言いながらミエが先ほど火にかけていた鍋を運び込み、奥に安置する。

だがクラスクは彼女のそんな言葉など一切耳に入らず、その豊かな肉置ししおきを凝視していた。


ミエが鍋の蓋を開けると、そこには幾つもの大き目の石が入っていた。

彼女は一緒に持ってきていた底の深い皿を床に置き、トングで鍋の中の焼けた石をひとつそこに置くと…


汲んできた水を、その上からぶっかけた。


「うおっ!?」


猛烈に湯気が湧き出して、驚いたクラスクが思わず叫ぶ。


「あ、驚かせちゃいましたか?! す、すいません…っ」


窓を塞がれた小屋の中にたちまち蒸気が満ちて、みるみる蒸し暑くなってゆく。

頃合いを見計らってミエがもう一つ焼けた石を取り出して水を注ぐと、さらなる湯気が追加された。


「むう…これハ…?」


蒸気が体を火照らせ、クラスクの体からみるみる珠のような汗が迸る。


「どうですか旦那様、これが蒸気風呂です!」

「悪くない。うン。気に入っタ」

「やたっ! やりました! それはよかったです!!」


実際暑さと湯気とで汗が噴き出る感覚は初めてで、なかなかに心地よい。

クラスクは大きく伸びをしてリラックスした。


これが彼女のたどり着いた答え…要はサウナ風呂である。

それとも今風にロウリュとでも言うべきだろうか。


体にこびりついた汚れを取るなら別に水を浴びなくとも自分で掻いた汗で湿らせて落とせばいい。

最後に外に置いた水をかけて汗ごと洗い流せばいいのだ。

これなら水を大量に運んで溜め込む必要もなければシャワーなどの器具も不要だし、狭い部屋さえあれば浴槽すらも必要ない。


ただあまりに汗を掻きすぎると脱水症状を起こしてしまうので、風呂の後にしっかりと水分を補充する必要があるが。


「おお、汚れたくさん落ちル。面白いナ…!」


ミエから渡された布で体を擦ると大量の垢がぼとぼとと落ちてゆく。

それが楽しくなってクラスクは体中をごしごしと洗い始めた。

だが布の長さが足りず自分で背中を洗うことができぬ。


「むう? む…ムムム…!」


これでは届かない。

このやり方では背中の汚れが全部落とせない。

ああでもない。

こうでもない。

クラスクが四苦八苦しながら布切れと格闘していると…


「旦那様ー? 動かないでくださいましねー?」

「ウヒャッホウッ!?」


唐突に背後から声が聞こえてきた。

同時に背中に柔らかな感触が走って脳を刺激する。


夜の臥所で覚えたミエの手指の感覚だ。

ただ直接ではない。の彼女の指先である。


そう、いつの間にやらミエが背後に座り、用意した手拭いでクラスクの背中を洗っていたのである。


「ミ、ミエ…?」

「はい! お渡しした布ではお背中が拭けませんでしょう? ご不便かと思いまして。わたくしにお手伝いさせてくださいませ!」


ミエがごしごし、ごしごしとクラスクの背を擦る。

オークに比べたら細い腕で、一生懸命。

背中越しに聞こえる息遣い。

力強く、だが丁寧な布使い。


「はぁ、はぁ…わあ、いっぱい落ちますねえ。ふふ…っ」


見なくとも感じられる彼女のクラスクに対する献身、誠意。

彼はそれを言語化できず、だが無性に何かが込み上げてきて溜まらず胸を掻き毟って。


何かこう、報いたい。

喜ばせてやりたい。

この娘の…ミエの笑顔が見たい。


「ミエ!」


そんな気持ちがみるみる湧き上がってきて、矢も楯もたまらず勢いよく振り向いて。


「あん! もう、旦那様、動かないでくださいませ…っ」



そして、ミエの姿を見た瞬間、彼の理性が吹き飛んだ。



立ち込める湯気ですっかり肌に赤味が差し、体から噴き出る汗も相まって薄い布はじっとりと濡れ彼女の肌のラインをくっきりぴっちりと描き出している。


その息は荒く、どこか艶っぽく。

その瞳は潤んでいて、上目遣いで…情熱的に彼を見つめていた。


「ミ、ミ、ミミミミミエ!」


思わずミエを押し倒そうとするクラスクを、けれどミエの手指が制した。


「あの、いけません旦那様…っ」

「あ、す、すまなイ…!」


困ったように己を押し留めるミエを見てなんとか理性を取り戻す。


(何をやっテルんダ俺ハ。違う! そうじゃなイ!)


思わず襲い掛かったのは理性が負けたからだけれど、その自体はちゃんとあったことを彼は説明したかった。


ミエの己に対する頑張りに対し何か応えたかったのだと、彼女の誠意に対してこちらも誠意と感謝で応えようとしたのだと、きちんと伝えたかったのだ。


「オオオオ俺ハその、ええト、ナンダ…」


けれどオーク族にはそうした行為が殆どなくって。

オーク語にはそうした単語が殆ど存在しなくって。

そして彼の語彙にはそうしたレパートリーが決定的に足りていなくって、知らなくて。



、けれど



必死に言い訳しようとしどろもどろになるけれど、自分の内側を説明するすべを彼は持たなかったのだ。


通常オーク族はこうした複雑な感情に囚われることはほとんどない。

彼らの生活はシンプルで、その少ない知性や感性ではそうしたことを考えることもなければ思い悩む必要もないからだ。


たまにそうした気持ちが湧き上がる個体がいないではないけれど、そういう場合彼らは急に暴れたり暴力を振るったりすることでその気持ちを紛らわせ、発散させてしまう。

説明できないものをいちいち説明しようとすることすら彼らには煩わしいのだ。


けれど今のクラスクはそれができない。

ミエの≪応援≫によって育ちつつある知性が、判断力が、このまま暴れてしまえば彼女を傷つけてしまう、と彼に理解させてしまうから。


だからなんとか口で、言葉で説明しなければ。

わかってもらわなければ。

だって聞こえるのだ。彼の内側に湧き上がる感情が彼に訴えかけるのだ。



この娘に…ミエに嫌われるのだけは嫌だ…! と。



「あ、うー…」

「…旦那様?」


けれどミエは、そんな彼を優し気な笑みと共に見つめて…

少しだけ身を乗り出して、彼の耳元で囁いた。


「ここだと逆上のぼせてしまいますから、その、なさりたいならベッドの上で…ね?」

「フォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!!!?」


今度こそ理性は吹き飛んだ。

完膚なきまでに叩きのめされた。


オーク族としてとても希少な、そして重大なに至らんとしていた彼の知性は、その溢れんばかりの劣情と欲情の発露に押し流されてしまった。




まあ、今回は明らかにミエが悪い。




「きゃーっ!?」


あられもない姿のミエを小脇に抱えたクラスクは湯気と共に扉を蹴り開けて我が家へと全力で走…ろうとして、ミエの懇願を受け入れて外にあった桶から水をひっかぶり、改めて己の家の中へと消えて…



そしてその夜、ミエの≪応援≫と共に…女性が拒絶する素振りをしていても、本心から嫌がっているとは限らないはいことを学んだのだった。





クラスクの判断力と耐久力が、上がった。




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