第30話 ミエの人生観
「兄ィ! クラ兄ィ! 早クイコウゼェ!」
「わかってル! リーパグ! ちょっとまってロ!」
クラスクをせかす弟分らしきやや小柄なオーク。
リーパグと言うらしい。
オーク族には珍しく背に弓を背負っている。手持ちの武器は腰に刺した
「…呼ばれタ。行ってくル」
「はい。行ってらっしゃいませ旦那様。頑張ってくださいね(ちゅっ」
「ああ、任せロ!(ムフー」
頬への口づけと共にミエの≪応援≫を受け、勇躍して仲間たちのところへ向かうクラスク。
よくある出勤風景と言えば聞こえはいいがクラスクの肩に担がれているのは鞄ではなく戦斧であり、彼の仕事はビジネスではなく襲撃である。
その点についてミエは思い悩むことがないでもなかったが、現時点ではどうしようもないことなので割り切ることにした。
そういう種族の妻となった以上夫の
自分の生まれ育った世界の倫理を、道徳をそんな簡単に忘れることが、抑え込むことができるのか?
普通の人間なら苦労するかもしれない。
けれど彼女の出生は少々特殊だった。
幼いころから病弱で、家と病院を行ったり来たり。
笑顔で付き添ってくれる両親とお医者さん。こんなひ弱な自分にずっと寄り添ってくれて感謝してもし切れない。
けれど病室の窓で見るたびに思うのだ。
外で当たり前のように走り回り、遊んでいる同世代の子供を見るたびに思うのだ。
自分は何かしたのだろうか?
こんな目に、こんな体になってしまうほど悪いことを、酷いことをしたのだろうか?
それは自分が知らぬうちにやらかしたことなのだろうか?
それとも自分が生まれる前、前世とやらでしでかしたことなのか?
そうした前世に関わる教えを聞いて宗教に、神に帰依する人もいた。
けれどミエの思考はそちらの方面には向かわなかった。
だってその理屈なら己を苛んでいるこの苦労や苦痛は別の自分やかつての自分が為したことのせいなのだからどうしようもないのだと諦めなければないし、今のこの人生は次の自分の人生をよりよくするために捧げなければならないことになる。
それは何か違う。と幼な心に彼女は思った。
自分の人生は自分のものだ。
前世の自分なんか知らない。来世の自分がなんなのかだってわからない。
だから喩え不遜と言われようと、自分に降りかかった不運や不幸を前世とやらのせいなんかにしない。
してやるものか。
ならば自分の身に降りかかっている事は因果でもなければ応報でもない。
今の自分が外で元気に遊ぶ他の子供達に比べてより悪でないというのなら、罪深くないというのであれば、それは…
それは理不尽だ。
この世界にはただどうしようもない理不尽があるのだと、そう思うしかない。
そして…もし神様がいたとして、これを与えたのだとしたら、それに自分たちがどう立ち向かうのかを眺めているのではないかと、彼女はそう考えた。
…まあ結局神そのものかは置いておいて神らしき存在はいたのだし、このように別の世界に生まれ変わることができたのだかれど。
それでも彼女の根底には幼い頃より培ったそうした諦観にも似た覚悟のようなものが流れている。
言うなれば現状を受け入れて、正面から受け止めて、その上で今の自分にできることを精いっぱいやる、それが彼女の人生観なのだ。
「さて…と」
ミエは先日夫からもらった布を、かつてこの家の住人だった人たちが残した鋏で不格好ながらも裁断し、体に巻き付けて簡素な衣服にする。
そして自分がこの世界で目覚めたとき最初から着ていた衣服を川で洗い、先日の六尺棒を使って干した。
なにせ初日からずっと重労働でかなり汗を吸っていたし泥もついていた。
どこかのタイミングで洗濯は必要だったのだ。
替えの服を手に入れたことでそれが可能になったことは僥倖と言える。
これで替えの服、食事、住居、トイレ、風呂がなんとかなった。
元の世界の衣・食・住のレベルには及ぶべくもないけれど、たとえ最低限のレベルでもそれが整ったのは素直に有難い。
これでやっと他のものに目を向けることができるからだ。
「お風呂は良かったな。旦那様も喜んでくれたし」
元の世界の基準からするとこの世界、もしくはオーク族は清潔とは言い難い。
けれど彼女の夫…正確には未だ彼女だけが勝手にそう認識しているだけなのだが…であるクラスクの昨晩の様子を見る限り、彼らは清潔であること自体を厭っているわけではないようだ。
嫌々やるよりは楽しんでもらった方が絶対にいい。
そういう意味で皆の衛生観念を変えることは決して不可能ではないのではないか…などと希望的観測を抱く。
「さくばんの…ようす…」
自らの呟きに別の様子を思い出してしまい、全身を見る間に朱に染め上げる。
まだ結ばれてから日も浅く、夫の昂ぶりに未だ慣れぬミエであった。
「まさかあんなこ、興奮…興奮して、していただけるだなんて…!」
もちろん妻として喜ばしいことではあるけれど。
あるけれど。
「き、昨日はなんか流れでじ、自分から誘ったみたいになっちゃった気がするしっ、も、もしかして私、は、はしたない嫁だって思われたんじゃ…っ!?」
きゃー、と黄色い声を上げて両手で顔を覆う。
ちなみにそうした女性は大多数のオーク族にとってむしろ好みのタイプでありどストライクでもあるのだが、知恵を付けて精神的成長を遂げつつあるクラスクまでそうなのかはわからない。
なにせ性癖とは開発されるものだからだ。
「だから脇道にそれすぎなんだってば!」
ミエはことあるごとに夫のことを妄想し懸想してしまうの己を叱咤し強引に話を戻す。
近くで遊んでいたオークの子供らが、彼女のツッコミのようにぶうんと振るわれた腕の勢いに驚いて蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
自分のことはどうにかできた。
最低限ではあるがこの世界で生きてゆく準備ができた。
だってこの世界で生きてゆく覚悟ならもうとっくにできていた。
あの日、あの求婚を受け入れたあの時に…とっくにできていたのだから。
「なら、私が、次にやるべきことは…!」
それは知ること、だ。
そう、この村の住人、人間族とは異なる種族…
オーク族について、知ることである。
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