第9話 異世界の目覚め

「ん…」


瞼の上から降り注ぐ陽光に眉根をしかめ、娘はゆっくりと目を開けた。

背中に少しちくちくとした感触がある。どうも草の上で仰向けに寝ていたらしい。


大きく伸びをして上体を起こす。

浴びる光の明滅を不思議に思って見上げてみればそれは木漏れ日だった。

見渡せば辺りには木々が生い茂っているが鬱蒼と言うほどではなく、ところどころ地面に光が差し込む程度。

どうやら知らぬ間に森の中でうたた寝をしていたようである。


「あれ、私なんでこんなところに…」


そこまで言い差したところでゆっくりと記憶が甦る。

そうだ、確か自分は異世界に旅立つべく扉をくぐって…


ハッと我に返って娘は己の両手を見つめた。

綺麗な手である。

自分が記憶しているそれよりだいぶ健康的な気がする。


大慌てで足を確認する。

ある。健康的でつややかで(人並みに)太い足が。二本。


そして幼少の頃よりずっと己と共にあった車椅子が…ない。

周囲のどこにもない。


その女性…美恵…いやもうこの世界ではミエと呼ぶべきだろう。

ミエは近くにあった木の幹に掴まり、おっかなびっくり立ち上がる。


…立てる。

普通に立てる。


多くの者にとって当たり前すぎるそれは、だが彼女にとっては実に新鮮で、記憶も定かでないほどに久方ぶりの感覚だった。


木から手を放し、おそるおそる一歩を踏み出す。

歩ける。自分の足で歩ける。

長い間すっかり忘れていたはずなのに、まるで昨日まで普通に歩いていたかのように軽やかに歩ける。

もしかして己ではなくこの体が覚えているのだろうか、などと一瞬考えるがすぐに膨大な歓喜が込み上げてきてそんな感傷を忘却の彼方へと追いやった。


だって歩けるのだ。走れるのだ。自分の足で、足で、足で!


「ふふ、あはは、あはははははははははははは!」


込み上げてきた高揚に耐え切れず笑いながら草の上の走り、跳ねた。

歓喜した雀のようにくるくる、くるくると踊るように舞った。

廻り疲れて目を回し、地面にへたり込んでも笑い続けた。


自分の手が、足が、重さを感じることなくこんな自由に動くだなんて、久しく…実に久しく忘れていた感覚である。


「はぁ、はぁ…」


流石にはしゃぎすぎて少し息が切れる。

上気した肌から汗が滲みじんわりと服を濡らした。


「っていうか最初から濡れてる…?」


今更ながら己の格好を鑑みる。

前紐で縛った胴衣に簡素なブラウス、チェックのスカートにエプロン。

ミエの感覚からするとヨーロッパあたりの民族衣装のように見える。

彼女自身はそうしたことにあまり詳しくなかったが、スイスのトラハトやドイツのディアンドルあたりが近いだろうか。


そしてその衣服がほんのりと湿っている。先ほどはしゃぎすぎて掻いた汗のせいだけではない。明らかにそれより前から濡れているのだ。


怪訝に思って屈みこみ地面をつぶさに観察すると、どうやら己が滴らせたらしき水滴の跡が土の草の上に残っていた。

ミエにはまったく身に覚えがない。ということはこの体がした事だろうか。


ゆっくりとその水滴をたどってゆくと…小さな泉があった。

己が垂らしたらしき水跡は、その泉の中で途切れていたのだ。


泉の付近には彼女…もとい自分が暴れた様子が一切ない。事故で溺れかけたというわけではなさそうだ。

あの男が言っていた事が本当だとして、この状況を考えるなら…彼女は自ら死を選んだということだろうか。


身を乗り出して泉をそっと覗き込む。

あの男が言っていたようにその顔は確かにミエによく似ていた。


風貌はミエのイメージ的には欧州のそれに近く肌も白いのだが、顔の造作は生前…と言うべきだろうか…の彼女の印象に近く、髪もなぜか黒かった。

ミエのイメージからするともっと金髪などが似合いそうな人種の気がするのだけれど。


だが体つきはだいぶ違う。

まあそこが病弱だったかつての彼女に似ていてもそれはそれで困るのだけれど。


あの男の言っていた通り泉に映るミエの姿はとても健康そうだった。

胸はだいぶ、お尻はかなり大きくなっていて、背丈などもいぶ高くなっている。

170cm…は流石にないが160は優に超えているだろうか。欧州の女性として考えたらわからぬが日本人として考えると大柄な方だろう。


年齢も若干上がっている気がする。

異世界かつ異なる人種の年齢など彼女にはよくわからなかったが、それでも元の己より1,2歳ほど年経ているような印象を受けた。


彼女が幼いころから病に侵されることなく、あと数年健康的に育っていたらちょうどこんな感じだったのだろうか。


「なんで…」


なんで、なんで、そんな恵まれた体を持ちながら自らの命を放り捨てようなどとしたのだろう。

それはとても、とてももったいないことに思えた。


彼女にはわからなかった。

健康を、健全な肉体からだをずっと切望していた彼女には、それは理解できないことだった。


けれどそのお陰でミエはこの世界で新たな生きていくことができる。

そのことには心から感謝するべきなのだろう。


「ありがとうございます。大切に使わせていただきますね」


両手を合わせて神様に祈…ろうとして、はて、この世界の神様って誰だろう? という疑問に至り、色々悩んだ末に己の出身地の神様と仏様に祈ることにした。


「さて、これからどうしよっか」


気分が落ち着いてから己の現状の頼りなさに気づく。

自分の魂と記憶を持ち込ませてもらえたのはいいけれど、この世界の知識や記憶が上書きされて消えてしまっているようなのだ。

そもそも目覚めたのが森の中では自分の家すらわからない。


これはちょっと不親切すぎではないだろうか。


「確か危険な世界って言ってたような…」


どうしよう。せっかく手に入れた健康そのものの体をその日の夜に狼の餌として終えるのはいささか…いやだいぶもったいない気がする。

いやそもそも狼がいるのかすらわからないのだけれど。


「……?」


と、そこで彼女はぴたりと動きを止め、目を閉じて耳を澄ませた。


…遠くで音がする。

何かが倒れるような音だ。

直後に馬のいななきのようなものが聞こえた。



いったいなんだろう…よくわからぬまま、ミエは森の中をその音がした方角へと歩き始めた。





それが…彼女の人生を左右する大きな大きな分岐点になるとは気づきもせずに。




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