第88話 まれぼしモーニング、ふたたび
しとしとと雨が降る朝。
休日の朝に天気が良くないと、なんとなく気分が上がりきらない。でもたまにならこんな日も悪くないか。
今日はモーニングを食べに行くことにしていたので、予定を変更せずそのまま傘をさして出かけることにした。
雨のせいか空気は涼しく澄んでいて、このところでは一番ひんやりしているように感じる。
傘のしずくを払ってまれぼし菓子店のドアを開けてみれば、今日はわたしが一番乗りのようだった。
「おはようございます。いらっしゃいませ」
「おはようございます! モーニング、やってますか?」
「はい、もちろんですよ。お好きなお席へどうぞ」
今日はなんとなく手嶌さんの仕事を見ていたい気持ちがあったので、カウンター席を選ぶ。
傘立てに傘を置くと、よいしょと腰掛けた。
「予報によれば、今日は一日雨なんだそうですよ。少し肌寒いくらいですから、飲み物は温かいものもオススメです」
「じゃあホットコーヒーにします!」
そんな話をしながら、お水を持ってきてくれた手嶌さんの横顔を見てふと思い出す。
『縁』。このまえ星原さんが話してくれた思い出話で、印象に残ったキーワードのことだ。
その言葉を聞いてから、わたしは巡り合わせというものを意識するようになった。
今までのことを振り返ってみると、まさにご縁を感じることばかりだったから。
「手嶌さんはご縁とか運命とか、そういうの信じたことはありますか?」
「ご縁のお話ですか。急にどうしたんですか」
「ちょっと思うところがあってですね……」
手嶌さんは手早くモーニングの支度を整えながら、わたしの話に応じてくれる。
トースターで厚切りの食パンが焼かれている間に、サラダボウルには新鮮なベビーリーフ、プチトマト、きゅうりの用意がされている。ゆで卵も器にちょこんと鎮座。ソーサーの上では、すでにくまちゃんのマカロンが待っている。
木製トレイの上のおいしそうな朝食たちを楽しみにしながら、頭に浮かんだことをつぶやく。
「なんだかここでこうしてモーニングを食べていることさえ、不思議なご縁があったおかげって気がしてならないんですよね。このお店に初めて出会った夜に、手嶌さんが声をかけてくれたから、今の色々があるわけで……」
別に神様とか仏様を信じるというほどではない。でも、本当に不思議な縁を感じたのだ。
あの時なんとなくで通り過ぎてしまったら、今はなかった。
あの日あの時にこのお店に出会ったことで、わたしは色んなお客さんにも出会ってきたし、星原さんや木森さん、手嶌さんとも出会った。
そんな出会いは元は内向きに悩みがちだったわたしを段々と変えていき、それが今のわたしへと繋がっている。
なんとなく噛み合っていなかった歯車が、この場所と人々に出会ったのをきっかけにしてうまく回り出したような、そんな感覚があるのだ。
「だから最近ご縁のことを考えたりするんですよ」
「そうだったのですね。ご縁、巡り合わせ、運命……なかなかドラマチックな言葉ですよね」
「あはは、確かに運命とか言うと劇的な感じですよね」
「……縁というものは。細い糸に似ていると、僕は思っていまして」
コーヒーをペーパードリップしながら、手嶌さん。
ふわりと上がる湯気を伏し目がちに見つめながら言う。
「すぐに切れてしまいそうなのに、思いのほか強固なことがあります。もちろんその逆もまた。その脆さや強さが、ご縁というものの持つ特徴というか、力なのかなと」
カップにコーヒーが落ちる音がちょっと大きく聞こえるくらい、店内は静かだ。
「縁を結ぶということは、モノとモノとが関わる力をより安定したものにすることです。『お客さまと店員』とか『親と子』とか、形を決めてしまうということですね。一方で、形を決めるということは縛りつけて固定してしまうことでもある」
コーヒーの注がれたカップをトレイに乗せながら続ける。
「それは人も、そうでないものも同じです。たとえばジンでさえもそうです。あれも今はあの神社という場に役目で縛られていますからね」
ジンさんでさえも、かあ。あんなに自由気ままな感じなのに、それでも彼には彼の役目や立場があるのだ。わたしが会社で働いていて、『誰かの家族であり友人であるわたし』という存在であるのと同じように。
「糸によってほどよい繋がりができるのか、がんじがらめになってしまうのかは、そのヒト次第。あなたのご縁が良いものだと思えたなら、それは他ならぬあなた自身の選択が良いものだったからなのだと思いますよ」
「そう……なのかなあ。そうだと良いなあ」
選択。この言葉も前に手嶌が言った中で印象的だった言葉のひとつだ。自分で決めて、自分で選ぶ。選んだことをわたしは後悔していない。
それが良いことに繋がっているのだとしたら、それは嬉しいことだ。
考えていると、ちょうどトーストが焼き上がる音がした。
手嶌さんはカウンターに背を向けてお皿にパンを取り出している。
雨が少し強くなったようで、ザアザアという音が店内まで聞こえてきていた。
「手嶌さんはその……」
手嶌さんは、『何』なんだろう。
こんな話を聞いているとそう思う気持ちがより強くなってきて、言葉となって口からこぼれかける。
振り返った彼の色素の薄い茶色の目が、わたしの目を見つめる。心の中まで見透かしてしまいそうな目が。
そのとき、はっとした。
わたしが出会った手嶌さんは、他ならぬ『このヒト』なのだ。
つまらない話でも聞いてくれて、見つめていてくれて、おいしいお菓子を作ってくれる。お仕事に真剣でとても優しい人。
わたしにとっての彼を語るなら、それだけで十分なのではないだろうか。
彼がたとえばジンさんのような、わたしの知らない不思議な『何』かだったとして、何が変わるというのだろうか。
手嶌さんがわたしにしてくれたことは変わらない。
彼が、『何』であろうとも。
……だから、いいのだ。
これでいいのだ。
「えへへ……やっぱりなんでもないです、ごめんなさい」
「おや。良いんですか?」
「はい。自己解決しました」
トーストを載せたお皿をトレイにセットして、モーニングの完成。
手嶌さんはカウンターから回り込んでトレイをわたしの前に運んでくれた。
カウンターでグラスを磨く手嶌さんと、モーニングをいただくわたし。
雨の音。
静かな、静かな店内。
ゆっくり時間をかけて、コーヒーを飲み終わったとき。
「おや」
「どうしたんですか?」
手嶌さんは窓の近くまで歩んでいく。外を見ながら、
「雨、上がりましたね。虹が」
「虹!」
わたしも窓に歩み寄った。
雨粒の散った窓ガラスの向こうに、確かに七色に輝く虹の橋がかかっている。
「虹なんて久しぶりに見ました!」
「きれいなものですね」
そうして喜んでいたら、傍らに佇んでいた手嶌さんが不意にわたしに視線を向けた。
「さきほどのお話を今更続けるようですが……。僕は、『まれぼし菓子店の手嶌叶芽』ですよ、今は」
まるでさきほどのわたしの心をしっかり読んでいたかのようなことを言われた。わたしはドキリとする。
答えをくれるとは全く思っていなかった。それに答えはなくていいと思っていたから。
その後、一拍分考えてから彼は言った。
「そしてあなたとご縁があった、そのことを本当に嬉しく思っています。僕にもうまく言えないのですが。……ありがとうございます」
彼はそう言って微笑んだ。
その微笑みは少しはにかんだような、あまりにも優しいもので。わたしの方が嬉しくなってしまうような――今までに見たことのない手嶌さんの表情だった。
……お礼を言われるようなことは別に何もしていないのにな。
でもこんなに嬉しそうな手嶌さんが見られるなら、それはそれで良い。
「えへへ。今日はなんだか、良い日ですね」
「そうですね。良い日です」
「一日雨のはずだったのに晴れましたし、虹まで見ちゃいましたからね」
雨も上がったとなれば、今日は休日、これからお客さんもどんどん増えそうだ。
早めにまれぼし菓子店を後にすることにした帰路、空を見上げる。
まだ虹の橋が雲と雲の切れ目に見えていた。
美しい虹色を見上げながら、ふと思う。
わたしに笑いかけてくれた手嶌さんの晴れ晴れとした顔は、虹よりももっともっときれいだったな、と。
本当に良い一日になりそう。
上機嫌に水たまりを避けながら、わたしは歩き出した。
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