第86話 レモネードは思い出とともに(前編)
カウンターに乗せられた大きくて透明なフタ付きの瓶。
瓶の中では黄色くてまあるいレモンの輪切りが、たっぷりのシロップに浸かっている。
光に透けた瓶の様子はなんだかとてもきれいで、のぞき込むとカラフルな水の中にいるような楽しさがある。
「今日はレモネード、飲んでいかれます?」
わたしがそうやってしきりに瓶を見つめているので、星原さんはちょっとおかしそうに笑いながらもたずねてくれた。
「えへへ……ぜひお願いします!」
「そんなにじっと見つめなくっても、レモンはどこにも行かないですよ。あったかいのと冷たいの、どっちが良いかな?」
「冷たいので!」
「はあい。少々お待ちくださいね」
軽やかに紺のエプロンを翻す星原さん。
わたしは窓の外を見やる。そろそろ暑さを感じる日も増えてきた。こんな気候なら、やっぱり冷たいレモネードでのどを潤したい。
星原さんはレモンシロップの瓶を開けると、細い銀の
透明なグラスに氷とシロップ、冷水を満たしてよくかき混ぜ、レモンの果実とミントを浮かべれば仕上がりだ。
見ただけで涼し気で心地よい気分になれる。
「お待たせしました! 〝はちみつ色の太陽〟レモネードです」
「おいしそうー! 早速いただきます!」
銀のシンプルなコースターの上に乗せられた、まるっとしたシルエットのグラスを手に取る。
ひんやりとしたガラスの手触りがすでに嬉しい。
ストローを口に含んでレモネードをすすれば、なんとも爽やかな酸味が広がる。同時にほのかで優しい甘みも感じる。〝はちみつ色の太陽〟の名前どおりにはちみつも加えられているのが、まれぼし菓子店のレモネードの特徴かもしれない。
するっとのどを下っていくところまで気持ち良い。体いっぱいに爽やかさが満ちている。
それにしてもレモンって本当に良い香りだ。そのものをかじる酸っぱさを想像するとつばが出てきちゃうけど、こうして何かに加工されていると際立つ風味があると思う。
「良いですねえ、レモネード。温かいのもほっこりできて良いんですけど、冷たいのもすっきりしてやっぱりおいしい!」
「お褒めに預かり光栄です。冬から春にかけてレモンが出回ると、ドリンク担当の私が毎年シロップ漬けを作ってね。こうしてお店に出してるんですよ」
「星原さんのお手製なんですか? 素敵です! よりいっそうおいしく感じます」
「ありがとう、そう言ってもらえるの、嬉しいなあ」
嬉しそうに笑う星原さん。そんな星原さんの明るい笑顔が、わたしは大好きだ。
実はね、と彼女は言葉を続ける。
「レモネード、まれぼし菓子店がオープンしたばかりのころからある、古いドリンクメニューなんですよ」
「そうなんですか? じゃあお店のこだわりの最古参なんですね」
「そうそう。きっかけはね……」
と言いかけた星原さんが、ふとなにかを思いついた顔でわたしを見つめた。
なんだろうと首をかしげていると、思わぬ提案がされる。
「……そういえばこのお店作った当時のアルバム、あるのよ。見てみます?」
「えっ! 見たいです! ぜひぜひ!」
「オッケー! ちょっと待っていてね」
星原さんはいったんお店の奥に引っ込むと、一冊のアルバムを手に戻ってきた。
お礼を言って差し出されたアルバムを受け取り、ちょっとそわそわしながら開いてみる。
お店のオープン当初のアルバム。わたしの知らないまれぼし菓子店の姿を見るのは、なんだか秘密をこっそり共有してもらえるようでワクワクどきどきしてしまう。
シンプルでシックなブラウンの表紙をめくると、まれぼし菓子店のお店の前で、いつもの三人が記念撮影している写真があった。何年か前のものだけあって、今とはちょっとずつ違う。
まばゆい笑顔で写っている星原さんは、当時はショートカットでなんだか新鮮だ。木森さんも少し若い気がする、写真の時くらいニッコリすればいいのに。手嶌さんは……この人は本当に全然変わらないな。不思議なくらい今と同じ。
三者三様という言葉がぴったりの写真だ。
またページをめくると、今度はお店自体の写真。内装やインテリアの細部が今とは少し違うところがあって。
でもお店のトレードマークみたいなランタンや、ステンドグラスのついたドア、ハーブのプランターなんかはわたしの知っているところそのままで、なんだかちょっとほっとした。
お客さんたちと一緒に写っている写真もある。
タルトフレーズの老夫婦、奥様と旦那様、黒須さんと三毛猫のおはぎ、ほかにもわたしも会ったことのある常連さんたちの姿がちょこちょこある。
やっぱりお客さんたちにも長く愛されてるんだなあ。
「そういえばまれぼし菓子店って、最初は星原さんと木森さんでやってたって聞いたことがあるんですけど……」
「そうそう。よく知ってるわね。だから
うんうん、そうだよね。前にモーニングを食べた時に手嶌さんが教えてくれたんだった。
「私が昔独立して自分のお店を持とうと思ったとき、どうしてもおいしいお菓子も出したいと思ったの。でも私ドリンクや軽食はやれるけど、お菓子はそんなに得意じゃなくて。そのときちょうど知人の伝手で、愛想はないけど腕の良い若手の菓子職人だって木森を紹介してもらったんですよ」
「確かに愛想はないけど腕は良いですね」
「でしょ。それで二人で店を出すことにして、物件探しをしたらこの場所にすごく良い物件を見つけて。それがここ。さすがにリフォームはしたんですけどね」
リフォームしたとはいえ外観はほぼそのままだそうだ。本当にもともと素敵な建物だったのだなあと思う。
そうやって地道に準備を整えて、いざオープン!ということになったらしい。
あれ、でもそうしたら手嶌さんは……。
手嶌さんは今ではまれぼし菓子店に欠かせないメンバーだと思うけど、いつからここに来たのだろう。
「じゃあ手嶌さんはあとからお店で働くことになったんですよね。彼もお知り合いだったんですか?」
「ううん、えーとね。そうねえ、それに関しては微妙にあれやこれやあったんだけど……」
「あれやこれやですか」
「うん、そう。話せば長いような短いような……」
そう言われると
わたしの視線を受けて、星原さんはにへっと笑う。
「……お客さんほかにいないし、思い出話でもしますか」
「やったー! 聞きたいです、お願いします!」
カウンターの星原さんが話す姿勢になってくれたのを良いことに、わたしはやや前のめり、興味津々で話の続きを聞くことにした。
「あれはお店のプレオープンを一月にして、……それでいよいよ二月にオープンして。その直後のころだったわね……」
アルバムを懐かしそうにめくり、星原さんは話し出した。
その一ページで手を止める。そこには真新しい紺のエプロンを着けた手嶌さんの写真があった。
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