第80話 歩みを進めて、コーヒーゼリー

 春の陽気が気持ちの良いある日。

 出勤早々に課長のデスクへと呼び出されたわたしは、緊張でがちがちになっていた。

 いつもの小言やミスへの心配からではない。前々から噂されていた、本社への異動の話があるかもしれないからだ。


 ここのところずっとわたしの胸につかえていた件だ。

 結果はどうであれ、結論が出ることはある種ひとつの区切りをもたらしてくれるだろう。

 ただ、心の準備はしてきたとはいえ、今回ばかりはどうにもこうにも……。


「おはようございます、課長。ええと……」

「ああ、おはよう。君、もしかして聞いているかもしれないが、異動の件なのだがね」


 早速来た!

 緊張で思わず手をぎゅっと握りしめてしまう。

 どうなるんだろう……。

 ハラハラしながら視線を合わせると、課長が苦笑しながら言う。


「そんなに緊張しなくても良い。異動の件だが、今回は見送りになったから。引き続きこちらでしっかり頑張ってくれ」

「は! はい!」

「頼むぞ。では本日も業務に励むように」


 ……。

 心配が根っこごとほどけてすっかり消えてしまった。それも驚くほど呆気なく。

 なんだかへたりこみそうな気持ちだったが、何とか自分のデスクまで戻り、よろよろと椅子に座る。


 良かった……。

 しばらく呆然としてしまう。

 本社に行けるチャンス。同じ立場なら逃したことを悔しがる人もいるかもしれないけれど、わたしはむしろほっとした気持ちに包まれていた。

 ……たとえ本社行きが決まったとしても、納得して転勤したとは思う。あの時ジンさんの誘いを断ったわたしの答えは本心だ。

 ただ、今はまだこの場所でできることがあるから、この場所に残りたかった。それも本当なのだ。

 桜庭先輩のもとで学びたいことがあるし、綾瀬さんにも教えたいことがある。

 それに何より――。

 ――わたしには、まだ離れたくない人たちがいる。



 会社を定時で上がると、わたしはいつもより急ぎ足でまれぼし菓子店に向かった。

 ステンドグラス風のガラスがはめ込まれた扉からは、柔らかな光が漏れている。

 光の向こうのぬくもりに手を伸ばすように、わたしは扉を開いた。


 ちょうどシフト上がりで帰るところだったらしい星原さんが、快活な笑顔でわたしを迎えてくれる。星原さんと入れ替わりにホールに出てきた木森さんは、いつも通りのやや仏頂面。そして手嶌さんがとびきり柔らかな微笑みで迎えてくれる。


「いらっしゃいませ。おや、今日はなんだか勢いが……?」

「はい! 前々からお騒がせしていた件、なくなりました! まだまだこれからも、まれぼし菓子店にはお世話になりますね!」

「もちろんです。今日もごゆっくりなさってくださいね」


 明らかに元気になったわたしに、手嶌さんはちょっぴり意外そうに、そして嬉しそうに声をかけてくれる。


「あら! おめでとう……っていうのも変かな? でも、心配ごとがなくなって良かったわね」

「はい、ありがとうございます、星原さん。えへへ……ほっとしたのでなにか食べたくなってきちゃいました」


 席に案内してくれた星原さんとそんな風に話せば、


「……期間限定メニュー、せっかくだし食べてけば良い」

「木森さん! 今日の限定は何ですか?」

「コーヒーゼリーだ」


 脇からは木森さんがぼそりと言う。

 コーヒーゼリー!

 さっぱりできそうだし、晴れ晴れとした気持ちの今日にこそふさわしいかもしれない。

 そうとなれば、と席に着く前に即決してしまった。


 色ガラスのタンブラーに入った水を飲みながら、コーヒーゼリーが用意されるのを待つ。

 今日は空いている店内を見回すと、ずいぶん感慨深い気持ちになる。まれぼし菓子店に出会って、すっかり離れがたいと思うようになるまで、そういえば色んなことがあった。

 流れている穏やかな音楽に、控えめな照明の光に、少し興奮気味だった気持ちも段々と落ち着いてくる。

 ちょうど心が凪いだ頃合に、手嶌さんが銀のお盆にガラスの器に入ったゼリーを持ってやってきた。


「お待たせいたしました。〝微睡まどろむ夜の月白〟コーヒーゼリーです」


 黒に近い褐色の、固体と液体の中間の物体。そんなふるふると揺れるゼリーの上には、白いクリームがたっぷりかけられている。ふんわり丸い形のクリームはどこか月を思わせた。


 頂きますと手を合わせて、まずは一さじ。

 コーヒーゼリーだけで食べてみると、しっかり甘いがほろ苦い。深い旨味を感じるところに、元のコーヒーがいいのかなあと思える部分がある。

 爽やかな冷たさは、興奮気味だった頭を冷やしてくれるようで、ひんやり心地よい。

 思ったより弾力があって、口の中でも存在感を発揮しているのがなんだか楽しい。


「うちのコーヒーゼリーは深煎りのコーヒーを使っているんです。お店でも出しているものですから、味も馴染みがあるかもしれないですね」

「言われてみれば確かに! そして美味しいです! まれぼしのお菓子全部に言えることなんですけど」


 今度はお楽しみ、クリームと一緒に食べてみる。

 ホイップクリームの柔らかな甘みと、コーヒーゼリーの苦味。調和が取れている、ってこういうことを言うのかもしれない。

 甘みを楽しんでいるとやってくる苦味。でも後味は良くて、香ばしさを口に残してスルッとのどへ下っていく。


「うん、うん、本当においしい」

「ふふ、何よりのお褒めの言葉ありがとうございます」


 嬉しそうにしてくれる手嶌さんを見ていたら、不思議なことに胸のうちから溢れてくるものがあった。

 小さな銀のスプーンを置いて、思わず話し出してしまう。


「……実はですね、今日、異動がなしになったとき、正直ほっとして。喜んじゃったわたしがいるんです。それで……」

「ええ。……それで?」

「なんだかちょっとはずかしくなっちゃって……。これでいいのかなって。前にジンさんに願いを叶えてやるって言われた時に、自分で叶えますなんてえらそうなこと言ったのに……」


 コーヒーゼリーの褐色を見つめていた視線を上げると、手嶌さんはいつも通り……いつも以上に優しい笑みをたたえてわたしを見ていた。


「自分で決めて、自分で選ぶ。あなたはしっかりそうしたし、ご立派だったと僕は思いますよ」


 前にも聞いた言葉だった。

 そして今聞くと、心に根を張ってくれるような、そんな言葉。


「今の形で願いが叶ったのは、あなたの選択があればこそです。そこには、いわゆる運命のようなものや何かの介在はあったかもしれないにしても、この道を選んだあなたの選択というものが、何より大事なのではないでしょうか」

「そう……ですね。そうですよね! なんだか、また手嶌さんに背中を押してもらったような気がします」

「背中を押すだけでそうできたなら、それはあなたの中でもう答えが決まっていたからですよ」


 答えが出せたのは、こうして寄り添ってくれる手嶌さんや、星原さんや木森さん、先輩、綾瀬さん、……仲良くなったお客さん。ジンさんさえも。そんな色んな人たちに手伝ってもらえたからなんじゃないかって、わたしは思う。

 わたしはまだまだ未熟で、優柔不断で、全然しっかりしていない人間だけど、それでも……。


 手嶌さんは何も言わずに、静かに微笑むだけだった。

 色んなことが浮かんでは消えていくわたしの心を見透かすように。

 だから、わたしは……。


「手嶌さん。ありがとうございます、見ていてくれて」


 わたしよりずっと多くのことを知っていて、千里眼でも持っているように何でも見えていそうな手嶌さん。そんな彼にわたしができることといえば、たぶん素直に感謝の気持ちを伝えることぐらいなのではないだろうか。

 頭を下げて、上げる。手嶌さんは少し驚いたような表情でまばたきしていた。また元の微笑みに戻ると言う。


「あなたは不思議な人ですね」

「わたしからしたら手嶌さんの方が百倍くらい不思議ですけど……」

「……今のあなたの心を大事にしてくださいね。これからもどうか」

「よくわからないですけど、はい!」


 それがなにか大事なことなのであろうことはわかる。

 精一杯元気に返事をすると、手嶌さんは本当に嬉しそうに笑って――その笑顔のあまりの眩しさに、思わず目が離せなくなってしまうくらいだった。



 帰り道、春になって長くなった日もすっかり暮れ、空にはぽっかりと丸い月。

 ぬるい空気が辺りに漂っていて、どことなく緩んだ雰囲気の夜道を歩く。


 月を見上げながら、反芻はんすうする。


 今の自分の心を大事にすること。

 そしてこれからも成長していく。自分で選んで、決めて、生きていく。


 わたしがわたしなりの歩調で少しずつ歩いてきた道。この先もまだ長く歩いていく道。

 月は静かに静かに、見ていてくれる。

 空から降り注ぐ白い光に、なぜか手嶌さんの眼差しが重なった。


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