第77話 元気ふくらむチャイ

 暖かい店内でもほわっと湯気が上がる。

 熱々のその液体が並々と入っているのは、ぽってりとしたマグカップ。どことなくエスニックな感じのカップの柄をながめていると、鼻をくすぐる香辛料の香り。

 そのまま手に取ってふうふう冷まして、一口飲む。ガツンとくる感覚があって、飲み下せばおなかの底までほっかほかになる。

 ミルクと茶葉の旨みが混じりあって、渋すぎず軽すぎない良い具合に風味が出ている。

 仕上げははっきりとした甘みで、なんとも言えずコクがある。


「〝異国情緒の玉手箱〟チャイ、結構ガツンと来るでしょう?」

「ええ、ガツンと来ましたね」

 星原さんがにっこりすれば、わたしも思わずにっこりして応じる。


 このマグカップの中身はチャイ。

 いわゆるインド式のミルクティだ。カルダモンやシナモンなどをはじめとした何種類ものスパイスと、お砂糖の入ったものを一般的にそう言うそうで、これまでわたしにはあまり馴染みのない飲み物だった。


 今日わたしはまれぼし菓子店を訪れるなり、お店が空いているのを良いことに星原さんに異動になるかもしれないという話のことを伝えた。

 伝えたところで、もし異動になるとしたらそれが変わるわけでもないし、ならないとしたら取り越し苦労なくらいで、何が変わるわけでもないはずなのだけれど、なんとなく言わずにはいられなくて。


 そんなわたしの話を聞いてくれた後で、星原さんが選んでくれたメニューがチャイだったのだ。

 熱いチャイをちびちびすすっていると、彼女は真っ直ぐこちらを見ながら話しかけてくれる。


「落ち着かない気持ち、あるよね、どうしたって。知らないところに行って、知らないことをするかもしれない懸念とか、今までの環境から離れてしまうかもしれない不安とか」

「はい……まさにそうなんです。離れたくないなんて、ちょっと甘ったれてると思いますが……」

「ううん、人なら自然なことだし、あなたが人情深いからだとも思うよ。甘ったれなんてことないですよ」

「……それに、異動になるのに見合うくらい、わたしは本当に成長しているかって、それも心配になっちゃって」

 考え出すといつも思考が堂々巡りしてしまう。

 なんだか肝心なところで、わたしはわたしに自信が持てていないのかもしれない。自信が萎むと、胸がぎゅっと冷える気がする。

 そう思っていると、意外そうな顔をして星原さんが、


「あら、あなたはすごく成長してると思うよ。ここに来始めた時に比べて、ずっと快活で頼もしくなったし、時々一緒に来る後輩さんの様子から見てもそれはよく分かるもの」

「えっ、そうですか?」

「そうだよ。それにあなたにはあなただけにしかない良さがあって。その辺が手嶌や木森や、うちの常連さんに素敵だって思われてるんじゃないかな。もちろんあたしにだってね」


 ウィンクしてみせてくれる星原さんの方が百倍も素敵に思えた。彼女は明るくて、仕事もできて、しっかりしていて、とにかくわたしから見たらすごく羨ましい女性なのだ。

 でも……。

 チャイを口に運ぶ。熱い液体はのどを伝って胃の中までおりていって、おなかからぽかぽか温かいものが伝わってくる。

 そうなのかも、と思う。星原さんとわたしでは、やれることも性格も違う。そしてたぶんそれでいいんだろう。それがいいんだろう。

 だから……。だからこそ。


「大事なのは自分らしく振る舞う……ってことですかね」

「そうそう。どこにいて何をするにしても、それが大事だと思う。後悔のないように」


 それは、『自分らしく振る舞えば、悪い風にはならない』という、手嶌さんが言ってくれた言葉と重なる。

 全部、自分自身が選んで決めていくことなのだ。


 気づくとチャイがもたらしてくれた体のぽかぽかは、心にもうつり、相互に作用してぽかぽかを高めてくれている。

 なんだか、やっと元気の種から芽が出た感じが、する。


「おや。元気出たかな?」

「ちょっと、元気出ました!」

「それは良かった。チャイ、たまには良いものでしょう」

「そうですね! 身も心もぽっかぽかになりました!」

「うんうん、良かった。あなたが元気ない顔だと木森まで心配するからね」

「木森さん? ともあれ、もう、大丈夫です、たぶん!」


 わたしたちは笑顔を交わしあった。


 わたしの心は頼りなくて、迷子になってばかりだけど、それでもたぶん、これで良い。それがわたしだから。

 そしてそんなわたしでも、わたしができる中でベストを尽くしていけば良いんだと思う。

 少なくとも、異動の話がどうなるかわかるまで、……わかった後も、この場所に来られる一日一日を大事にして、過ごしていこう。


 甘いチャイの余韻を楽しみながら、接客に戻っていく星原さんにお礼を言って。

 また少し日の長くなった夕暮れを窓から眺める。

 お店の扉のステンドグラスが綺麗に輝いていて、わたしは目を細める。暖かな時間を噛みしめながら。

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