第76話 名残のおしるこ

 深夜のまれぼし菓子店は、静かで落ち着いているけど、雰囲気が特にいつもと違う日があるように思う。

 そんな日でも、スタッフの接客はいつも通りだから、違うのはお客さんのほうであることが、最近わかってきた。

 思えば今日もそんな日だったのかもしれない。

 しかし、わたしの頭は会社で話題にのぼったあることでいっぱいで、周りを見ている余裕が全然なかったのだ……。



「異動……ですか?」

「まだ噂の域を出ないんだけど……」

 先輩からその話を聞いたのは今日のお昼のことだった。

「その、それってわたしがですか?」

「その可能性が高いみたいなの」


 本社への異動。

 まさに降って湧いた話に頭が真っ白になったが、その噂話の対象が自分かもしれないということにさらに驚く。

 もしも本当にそうなったら、栄転、ということになるんだろうけど……。

 本社は今の会社の空気と違って、もっと厳しい感じだという。向こうに行ったとして、わたしはついていけるのだろうか。

 それに当然だけれど、この街からは離れてしまう。せっかく慣れ親しんできたところなのに。街にも、人にも、それに……。



 と、突然。ぽん、と後頭部に軽い、でも大きな手の感触。

 途端に、深夜のまれぼし菓子店に引き戻されたわたしはびっくりして振り返る。

「よう、ポチ公」

「わっ!? ジンさん!? どうしてこんな所にいるんですか!」

 あんまりびっくりしてそんな声を上げたら、ジンさんは目を丸くしたあとで吹き出してひとしきり大笑いしている。

「まさかお前にもそんなことを言われるとはな」


「ええ、どうかあなたも言ってやってください。ジンに、ふらふら出歩くなって」

 さらに店の奥から戻ってきた手嶌さんの声が容赦なく重なる。今日はジンさん相手だけれど、どうしてかいつもよりいくぶん柔らかい。

「癖になると困りますから」

「お前、俺のことをなんだと思ってるんだよ」

「さて。メニューをお持ちしましょうか」


「……手嶌さんじゃないですけど、本当にジンさんどうしてふらふらしてるんですか?」

「梅の香りにつられて、夜の散歩てのも乙だろう?」

「風流っぽいこと言ってますけど本当ですか?」

「お前も、俺のことなんだと思ってんだよ」

「そりゃ、ジンさんはジンさんだと……」

「含みがあるように聞こえるな、百面相のポチ公よ」

 言いながら、彼はわたしの真向かいの椅子を引く。他にお客さんもいないけど相席、ということらしい。手嶌さんが嫌そうな顔をしつつ、メニューを持ってくる。


 わたしはといえば、来てから煎茶を頼んだきりでぼーっとしていたのだが、ジンさんの顔を見たら不意に大福のことを思い出して、あんこが食べたくなってしまった。

 今日は大福の類は売り切れだけど、さて……と思って、彼がメニューをめくるのをのぞきこんでいると、あるものが目に付く。


 おしるこ。


 今日までの季節限定のメニューだ。これにしよう。

 顔をあげれば、目が合ったジンさんがにやりとする。

「叶芽、しるこ二つだ」

「かしこまりました。お餅が焼けるまで少しお時間をいただきますね」

 手嶌さんが再び奥に下がっていって、店の中はしんと静まり返る。


 それにしてもジンさん、本当にあんこ好きだなあ。

 なんてのんきなことを考えていると、呼ばれる。

「おい、ポチ公」

「はい?」

「今日は珍しく冴えないようだな。あー……そうだな」


 しげしげと見られた後に、

「叶えてやろうか?」

 ジンさんは唐突にそう言う。


 あんまり唐突だったので絶句していると、それをどうとったのか、こう言葉をつぐ。

「なんでも、願えばいい。俺は叶芽とは違う。叶えてやるぜ?」

 いつものにやにや笑いがすっと消えて、底知れない深みを持った眼差しで見つめられた。すると、彼の言うことが真実のように思えてくる。わたしの考えなど、まるでお見通しのように思えるのだ。


 さっきまで頭をいっぱいに支配していたことが思い浮かんだ。

 わたしはこの街から離れてしまうのだろうか?

 離れたくない……そんな気持ちがないと言えば嘘になるだろう。

 この街から。まれぼし菓子店や、ここで出会ったたくさんの人と。

 でも、……。


「わたしは……」


 タイミング良くなのか、悪くなのか、手嶌さんがおしるこを運んできた。

 その時にはジンさんはいつものにやにや笑いに戻っていたし、手嶌さんは心なしかそんなジンさんにとがめるような視線を送っている気がする。


「お待たせいたしました。〝夜闇に咲く小花〟おしるこです。お口直しに漬物もひと口つけておりますので」

「よっ。待ってたぜ」

「……いただきます」


 あったかい。春がもうすぐそこに来ているとはいえ、夜は芯が冷える、そんな時にほうっとあったまるような優しい小豆の味。

 小豆の粒が残っているおしるこは、関東風の田舎汁粉、というくくりだそう。素朴で、とびきり甘くて、それでいてほんのり塩味をどこかに感じて。

 パリッと焼かれたお餅の香ばしさ。皮をパリパリ食べた後に、ぐぐっとのびるお餅の弾力はなんだか愛しささえ感じる。

 お餅に小豆のスープがからまって、渾然一体となるのが、おしるこの美味しいところなのだと思う。

 甘くなった口に、酸味と塩味の備わったお漬物がさっぱり感を与えてくれる。


 ジンさんはといえば、目の前でものすごい勢いでおしるこを平らげては、三杯おかわりしていた。

 筋金入りの甘党なのかもしれない。


「ああ、美味かった」

 背伸びして席から立ち上がり、そのまま長身に任せてわたしを見下ろす。

「ま、そんなだ、ポチ公。決まったら俺を呼べよ」

「え、あ、はい……あの……」

 もしかして、気にかけて、わざわざ出てきてくれたのだろうか。

「……ありがとうございます」


 どう言おうか迷った末に、正直な気持ちを伝えて頭を下げた。

 ジンさんがどんな顔をしたのか、分からなかったが……。


「あー。……ポチ公め! 帰ってさっさと寝ろ!」

 わしゃわしゃと頭をめちゃくちゃになでられた末に、顔を上げたらもうジンさんの姿はなかった。

 ……怒らせたのだろうか……?


「……手嶌さん」

「たまにはあれのあんな顔を見るのも小気味良くて面白いものですね」

 手嶌さんは笑ってそう言い、その後わたしを見つめながら丁寧に言葉を紡いだ。

「あなたが今お気になさっていることは、あなたがご自身らしく振る舞えばきっと悪いふうにはならないことだと思います。どうか焦らず」

「自分らしく振る舞う……」


 わたしがわたしらしく振る舞うってどんな感じだろう。わたしは、みんなと離れたくないし、それに……。

 ジンさんのあの時の顔を思い出す。


「……願いを叶えてくれるって言われました」

「願うかどうかも含めて、自分で決めて、自分で選ぶ。それが自分らしく振る舞うということで、大事なことです。難しいかもしれませんが、単純なことですよ」

「手嶌さんって、結構厳しくて、優しくて、不思議ですね」

 こうして話を聞いてくれても、直接答えを教えてはくれない。でもずっとそばにいて、手助けはしてくれる。

 不思議な人だ、願いを叶えてくれると言ったジンさんと同じくらいに。


 答える代わりか、彼は優しく微笑して、煎茶のおかわりをいれてくれた。

「さあ、夜ももう遅いです。あたたまったら、梅の香りを探しながら帰って、ゆっくり休んでください。今日は色々お疲れでしたでしょうから」


 ああ、本当だ。なんだかとても疲れていて、おかわりの煎茶が身に染みて美味しい。

 梅の香りに誘われて、と言っていたジンさんの顔。お茶をいれる手嶌さんの端正な指先。夜の闇の中に咲く小さな花と、濃い香り。

 夜の闇のようによく見えないわたしのこれから。

 色んなことを考えながら……今日はひとまず、休むことにしよう……。

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