第54話 コーヒーはブラックで
「……」
「……」
「……」
長い沈黙が支配する。おもーい空気。
テーブルにちょこんと飾られた小さな薔薇も、わたしと一緒でさぞ居心地が悪いのではないかと思う。
窓からの日差しもすっかり陰ってしまって、室内は初夏なのに少しひんやりしている。
いつもならリラックスできる空気に満ちているまれぼし菓子店だけど、今日ばっかりは仕方ない。
何しろ……。
今日のわたしはスーツ姿。
そして目の前にいるのは、中年のスーツの男性。上司……課長と一緒なのだから。
お得意先の担当の引き継ぎが何とか終わったところだった。課長はわたしに新たな得意先を任せてくれて、その紹介ということで今日は一緒に社外へ出ていたのだ。
こういうことって、そんなにない。一緒に外に出るとしても、たいていは先輩たち止まり。だから課長の前だとさすがに緊張してしまうのだった。
もしなにかヘマをやらかしたら、いつものように細々したお説教がとんでくるだろう。ハラハラしながら、なんとか仕事を終えた……。
ハラハラしながらも怒られずに仕事を終えられるようになったり、こうして新しい顧客を任されるようになったりということは、わたしもやはり成長しているのだろうか。本当にそうだったら、嬉しいことである。
そしてさらに嬉しいことに、この後は直帰だと喜んでいると……、課長が声をかけてきたのだ。
「ご苦労だったね。どうだ、コーヒーの1杯でもおごろうじゃないか」
と。
「私がコーヒーをおごるのがそんなに珍しいかね」
「え、いや……」
「全部顔に出ているぞ、君。ふむ……あそこにしよう」
わたしが驚いて、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている間に、課長はズンズン進んでいく。
その先にあったのが、まれぼし菓子店だったというわけだ。
そして今わたしたちは、コーヒーを待っているというわけである。
「なんだか色々と珍しいですね、課長」
「別に私もケチというわけではないよ。ただなかなか部下と喫茶したり、飲みに行ったりの機会はないがね」
今日は本当にお小言もない。そう思っていると課長は、
「まあ君も随分勉強して成長したようだからね。無理は禁物といえども、ま、ご褒美と言うやつかね……」
とそっぽを向きながら言うのだった。
課長……。正直細かいと思うし、得意な人ではない。でも悪い人ではないのかもしれない。初めてそう思ったかも。
「お待たせしましたー! 〝夜の
星原さんが元気に二人分のコーヒーカップを運んできた。
可愛いミルクポットとシュガーポット。今回のカップは、課長と一緒だからかさっぱりとしたブルーの古典的な柄。それと一緒においてくれたスプーンの上には、チョコレートが乗っている。
「ケーキなんか頼まなくて良かったのかね」
「ここのはチョコがついてますからね! ……ご馳走になります!」
「飲みたまえ」
はからずして二人で同時に口をつけることになって、少し笑った。見ると課長も少し笑っていて、わたしは更ににこにこしてしまった。
苦いもの……コーヒーって、小さい頃はあんまり好きじゃなかった。苦い泥水みたいで良さが分からなかったのだ。
ただ挽かれる豆の匂いは子供心に好きだった記憶がある。その香ばしさ……香り高さ。
大人になって、こうして美味しい店で美味しいコーヒーを飲むとわかる。
本当に美味しいコーヒーって、美味しいんだと。
天鵞絨……ビロードという名づけ通りに、なめらかに舌の上を滑っていくコーヒー。まれぼしブレンドは酸味はあまり強くない。苦味もほどほどで、すっきりとした後味、香ばしさが残る。
最初の一口は、仕事で疲れた体の隅々まで染み渡るようだ。大人の贅沢だなあと思う。
口直し用のチョコレートを放り込むと、その甘さが嬉しい。口の中で溶けていくのを見送ったあと、すかさずコーヒー。このふたつは相性抜群のコンビだ。
そうやってコーヒーを少しずつ楽しみ、飲み終わる頃にはすっかり元気を取り戻しているのだ。
「うむ、やはり仕事のあとはこれに限る」
気づけば課長も最後の一口を飲み終えるところで、しきりにそう頷いているのだった。
うんうん、わたしもそう思いますよ、課長。
「君も疲れが少しは取れたようだな。幸いだよ」
「……はい! ありがとうございます」
「では、気をつけて帰りたまえ」
張り詰めていたのも、お見通しだったか。課長にそう言われて、コーヒーの香りに包まれて、やっとわたしは気持ちを緩められた気がしたのだった。
お店から出る時、星原さんが課長に頭を下げながら、
「いつもありがとうございます」
そう声をかけていた。
……ということは、課長はもしかしてまれぼし菓子店の常連さんだったのか。
それでお気に入りの店に部下を連れてきてくれたのだろうか。
課長って気難しい人だと思うけど、なんだか親しみが湧いてきてしまった。そんなわたしは、単純すぎるのかもしれないけど。
柔らかなコーヒーの香りに包まれながら。なんとなく、また一歩大人になれた気がして。
少し肌寒い梅雨の夜、わたしはくつろいだ気持ちで家路へと着く。梅雨には珍しく、夜空には星が出ているのだった。
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