番外 夜半のカフェオレ
星原音子の夜は遅い。
と言っても、製菓担当の手嶌や木森に比べれば、それでも早く上がっていくほうだ。
まれぼし菓子店の二階に住んでいるこの男性ふたり組の同僚は、気をつかって、基本的に星原を早上がりにさせてくれることが多い。
窓の外を見る。桜が散り、新緑は傾いた日の中でもくっきり浮き上がるように萌えている。
この頃は、随分と日が長くなったものだ。あっという間に、今年も半分を迎えようとしている。
緩んだエプロンの紐をもう一度結び直す。
「もう少しで上がるねー」
「はい。お疲れ様です」
「おう」
声をかければバックヤードから声が返ってくる。
これもいつも通りの光景だ。
夕食は家で取るのが常。
それはそれとして、帰り支度をする前に、星原には習慣化していることがある。
豆を挽く。
沸かしておいたお湯の温度をはかり、適温であることを確かめる。
その後、用意しておいたドリップ用の器具一式に、お湯をじっくりと注いで……つまりコーヒーを淹れる。
帰宅前にコーヒーを淹れる時は、取っておいた最後の集中力の欠片まで、全部をすっかりつぎ込んでしまう。
指先、爪の先まで神経を集中させて。ハンバーグのように膨らむ泡を見つめながら。
そうして淹れたコーヒーに、あえてたっぷりミルクを淹れる。
カフェオレにするのだ。
一日の終わり、お疲れ様を込めて皆にカフェオレを淹れる。それが朝の始まりのコーヒーブレイクとともに、星原のもうひとつの習慣だった。
私物である大きめのマグカップがみっつ。
星原のものは、ポップな柄の……学生の頃からの付き合いの古めのもの。少し柄が剥げているところもあるが、まだまだ現役でいてもらうつもりだ。
木森のものは、焼き物系のマグで、発色の仕方がちょっと渋いもの。意外なような、そうでもないような。
手嶌のものは、無地で、趣味が伺いにくいが、飲み口の所が微かに薄くなっているのが気に入っているとは本人の弁であった。
三者三様の凸凹なマグカップは、自分たちそのものという感じがする。
並べてキッチンに置いておくと、不思議と調和して見えるところが特に。
マグカップになみなみとカフェオレをつくり、日によって余った菓子を少し添える。
これをこの後、おのおの好きな時に飲んだり食べたりするのだ。
柔らかな口当たり。
コーヒーの香りがまず鼻をくすぐっていって、それからミルクが舌の上で主張を始める。三人ともまず砂糖を入れることはない。ミルクの甘みが十分なくらいだからだ。
喉に流れていく時は、いかにも柔らかい感触。
最後に口に残るのはベースになったコーヒー、その日その日によって違う後味。これがなんとも言えない楽しみになる。
今日は店もそう忙しくなかったので、この後残る二人とともに夜のコーヒーブレイクとなった。
「今日もありがとね」
「……おう」
「お疲れ様でした。カフェオレ、やはりとても美味しい」
星原のコーヒーを飲んでいると、自分で淹れる気がしなくなると、手嶌はしょっちゅう、うそぶく。
彼は嘘やお世辞を言わないタイプの人間であるし、星原は純粋に光栄だと思うことにしている。
ちびちびとカフェオレを飲む手嶌。どんどん飲んですぐ飲み干してしまう木森。
思わずちょっと笑う。
うん。ここも、三者三様だと。
つられたように二人も微かに笑う。
これが、いつものまれぼし菓子店だ。
「今日もお疲れ様でした」
「あとは任せろ」
「二人ともあと少し頑張ってね」
晩春。
空には、大きな月が、少し傾いて。
まれぼし菓子店の変わらない日常は、こうして続いている。
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