第17話 梅雨寒のもなか
じめじめと冷たい雨が降りそぼる季節がやってきた。わたしの住む街もついに梅雨入りを果たし、これで一部の地域をのぞいては、日本全部が梅雨入りしたというニュースを見た。
雨イコール憂鬱と必ずしも結びつけるのは良くないけれど、何となくこんな季節にはちょっと憂鬱になってしまうものである。
これまでの夏日から急に冷え込むのもあるだろう。
湿度が高くてじめじめした特有の気候も良くない。
梅雨があけると、もう毎年おなじみになった猛暑がやってきて、それにも閉口するのだが、それはそれとして梅雨は何となく浮かない感じなのだ。
会社の中の空気も何となく気だるい。
仕事はつつがなく終わったものの、ちょっとこのまま帰宅する気にはなれなかった。
今日は週末だし……。
せっかくだし、まれぼし菓子店に寄っていくことにした。
さて通い慣れた道筋をたどっていると、その出来事は不意に起こった。
ちゃぷ……と水たまりをふむ足音が背後でする。何となく振り返ってみてもそこには誰もいない。
気のせいかなと思いながら足を進めるも、またしても誰かが着いてくる気配がするのだ。
この道は通い慣れてはいるけど、不審者などに出会ったことはない。
むしろ不可思議な出来事に出会う確率の方が高かったと言っていい。
それでも謎の追跡者は気味が悪く、そして怖かった。
わたしが止まると足音も止まるし、わたしが急ぎ足になっても足音は遅れずに着いてくる。
ちゃぷ、ちゃぷ……。
振り返っても本当に誰もいない。水たまりに波紋だけが残されている。
わたしはすっかり怖くなってしまった。
そして店までもう少しという所で、足音はにわかに歩調を早めてきた。
追いつかれる……!
ついにわたしは傘を放り捨てて、走り始めた。
ちょうどそのすぐ後、手嶌さんが店から出てくるのが見えた。
走り出したわたしに小走りによってきて、傘をさしかけてくれる。
「大丈夫ですか?」
そのまま自分の傘を手渡すと、私の傘を取りに行ってくれた。
もうあの足音は聞こえない。やはり気のせいだったのだろうか。
「すっかり濡れてしまって……どうしたんですか?」
落ち着いた手嶌さんの声を聞いていると、だんだん心も落ち着いてくる。
呼吸を整えながら、さっきの出来事を説明する。信じてもらえるかは別として……本当に怖かったから。
「あの、あし、足音が後ろから……誰もいないのに」
「足音」
手嶌さんが急に険しい顔になった。
この人のこういう表情は何度か見たことがある。
いずれもわたしが奇妙な目にあったとき、だった。
とすると、今回も……。
戻ってきた手嶌さんは、小雨の降りしきる闇の中に視線を向けている。
「あなたが表情豊かなのを面白がっている、けしからぬ輩がまだいるようですね」
厳しい口調で言って嘆息する。吐き出された息には、珍しく少しの苛立ちが含まれていたように思う。そして高らかに言った。
「次はありません」
「はい?」
「ですから、安心してお店にいらしてください」
そう言ってくれた時には、もういつもの手嶌さんだ。優しい微笑みを湛えている。
わたしはなんだか不思議な気持ちでお店に入ったのだった。
お店でタオルを借りながら今日のメニューを見ていると、ふと目に付くものがあった。
「もなか」
「〝晴れ空〟大納言あずきと、しろあん二種のもなかです。しっかりとした食感がおいしいですよ」
温かい煎茶を運んできてくれた手嶌さんが解説をしてくれる。
そういえばもなかなんていつ以来だろうか。しかも最後に食べたのはホンモノではなくて、もなかアイスだった気がする。
「じゃあもなかを下さい!」
何となく気をひかれて、今日はもなかにしてみることにした。
運ばれてきたのは、お花の形をした可愛いもなかだった。そういえば梅雨時なのに
そう思いながら手に取り、口に運ぶ。噛んだ瞬間の、パリッと香ばしい皮の風味。
あとから追いかけてくるのは、しっかりとした粒のあんこの、甘すぎない甘さ。
もう一口。この組み合わせを考えた人は誰だったんだろう。サクッパリッとした皮。もちっとしているとすら言えるあんこ。
煎茶を一口。甘さが流されていき、口の中の潤いが取り戻される。
梅雨時だからこそのもなかなのかもしれないなと思った。余計な水分を吸い取ってくれる気がする。ここのもなかはパサパサしていなくて、本当にサクサクと食べ進められてしまう。
もう一つあって、そちらは白あんだった。これもまた大納言の方とは風味が異なってよし。白あんの独特の味わいってなんて表現すればいいんだろう。優しい甘みが口中に広がり、そしてあっという間に食べ終わってしまった。
ところで。
もなかの皮が上あごの裏にくっついたときに取るのに苦労するのってわたしだけだろうか。
そんなひと騒動ありつつも、すっかり食べ終え、湿った気分も吹き飛んだ気持ちになった。
まれぼし菓子店のお菓子はいつもわたしに気分転換の機会を与えてくれる。
ちょっとだけ、不思議な目にあったりすることはあるけれど……。
「少し渋いメニューかなと思ったのですが、いかがでした? もなか」
「おいしかったです!久しぶりに食べました」
「それは何よりです」
わたしの答えより先に手嶌さんは笑み崩れていた。まるで答えがわかっていたみたい。……わたしってそんなにわかりやすいかしら。
奇妙な出来事も、梅雨の憂鬱も、もなかが吸い上げてくれたようだった。
「あ」
「雨、あがりましたね」
お店を出る頃には、雨も上がっていた。
雲の隙間から、少し星空が見えて、わたしははじめてこの店に来た時のこんぺいとうのことを思い出したのだった。
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