第2話 夕焼けのタルトフレーズ

 そうだ。あの店に行こう。

 そう思ったのは休日も終わりに差し掛かった、夕方一歩手前の頃だった。ティータイムのお客さんもきっとはけてるに違いない時間帯である。


 今日は洗濯と掃除を軽く済ませただけで、どこにも行ってないし、さきほどまでごろごろと昼寝までしていた。

 気だるい休日の締めくくりに、ほっぺが落ちそうなくらい美味しいお菓子を素敵な空間で食べる。これはわたしの思いつきとしてはかなり上出来なイベントに思えた。


 春の夕方は何となく辺りにもいい匂いが漂って、ちょっと温かくて、わたしは好きだ。散歩がてら閑静な住宅街をゆっくり歩いていると、見えてきた、見えてきた。

 まれぼし菓子店だ。

 相変わらず魔女の御屋敷のような店構え。でも中に何が詰まってるか知った今は怖くもなんともないのだった。


 イートインをためらう時間でもないので、早速入ろうかなという所で、ちょうど木製の扉が開きベルがしゃらしゃら音を立てる。

 先客が帰るところらしい。


 品の良さそうな老夫婦が扉から姿を見せた。

 こちらを見て会釈してくれたのでわたしも会釈を返して道を譲る。

 続いてお客さんを見送るために顔を出したのは、このあいだの夜に会った手嶌さん……ではなかった。

 長い髪をひとつに括って紺のエプロンをしている……彼女が店長だろうか?いかにも活発そうな雰囲気をしている。


「ありがとうございました!またお待ちしております!」

 気持ちの良い声。老夫婦もそう思っているのだろう。そしてこの老夫婦もまた感じが良くて、にこにこ笑顔で礼をするとケーキの箱を持って夕日に向かって寄り添って歩いていく。


(ん?なにか……)


 この時に抱いた小さな違和感の正体に、わたしはしばらく気づかないでいた。

 しばらく……そう。

 夕焼けが家々の向こうの雲に隠れるのと共に、突然老夫婦が〝消える〟まで気づかなかった。

「え?」

「あ。」

 そう、消えたのだ。忽然こつぜんと。そこには何も無かったように春の夕方が続いている。

 最初に老夫妻が出てきてから、ずいぶん長い時間を経て、わたしはやっと気づいた。

 あの二人――。あの二人の足元には――。影がなかった。


(マジですか……)

 えええ。そういう店なんですか。

 瞬間的に青ざめてでもいたのだろうか。


「お客様?大丈夫ですか」

「は、はい……なんとか」

 なんとかってなんだと我ながら。でもなんとか大丈夫なのは本当だった。やっぱり引き返そうとも一瞬思ったが、

「やっぱり帰るなんて言わないでくださいよ」

 顔に出ていたのだろうか、釘を刺されて引きつった愛想笑いを返す羽目になった。


「ひとまずは中へ入らない? お茶しにきてくれたんじゃないんですか?」

 そもそもの目的はそうだ。わたしは美味しいお茶とお菓子のためにやって来たのに……。

 少しだけ恨みがましさのこもった眼差しを女性に投げると、彼女はごめんねぇと笑いながら言い、

「たまに不思議なお客さんもおとずれるの。本当にたまによ。」

「彼らもですか?」

「彼らはこの時間の常連さんだけどね、あっ」

 慌てて口を抑えるが確かに聞いたぞ。やっぱり幽霊屋敷疑惑、あるじゃないか。


「まあそうねた顔しないでくださいよ。中、入りましょう、お客さま。初めての人ですよね。あたしは星原。星原音子ほしはら おとこっていいます」

 愛想笑いではないその笑顔を見ると、驚きと動揺もやっと治まってきた。彼女に連れられて店の扉をくぐった。店頭でずいぶん長いことすったもんだしていたものだ……。



 深夜とはまた違う雰囲気の店内は、今度は彼女一人が切り盛りしているらしい。星原さんは私に綺麗なガラスのグラスで水を出してくれた。


 ケーキを選びながら考える。

 そういえばあの人たちは……老夫婦は何を買っていったんだろう?

 以心伝心のように、頭上から答えが降ってくる。

「彼らはね、いつもタルトフレーズなんです。いちごのタルト2つ」


 見上げた彼女の優しい深い笑みをどう表したらいいだろうか……。包容力というのだろうか。

 その笑顔を見ているうちに、この店に何人の店員さんがいるかわからないけれど、なんとなく彼女が店長さんだという気がした。

 それとともにさまよっていた指先が、メニューの上で定まって止まる。


「これを」

「あら。ほんとに」

「うん、なんだかその、食べてみたくなっちゃいました」

「食いしん坊さんねー」


 かしこまりました、と言って彼女は奥へ下がって行った。

 わたしが頼んだのは、タルトフレーズだ。


「失礼だけど……幽霊と同じものはなんだか怖いって言うと思ってたわ」

 さっきまでの反応だとね。まるで今はそう思っていないような星原さんの言い草だが、それは正解だと言っていい。

 戻ってきた彼女が供してくれて、つやつやの宝石のようないちごのタルトを前にして、胸の片隅に少しはあった怯えの気持ちもすっ飛んでいる。

「お待たせしました。〝果ての果てで摘んだ幸せのいちごを使った〟タルトです。」

「わあ……いただきます」


 ここのタルトフレーズは、先日食べた洋梨の三角形とは違って円形のタルト地にいちごが乗っかっている。

 ころりとしたいちごはどれも宝石……陳腐だがこの表現を何度も繰り返してしまいたくなる綺麗さだ。


 タルトは大好きだけど、実は食べるのは苦手だ。なんでってこう……フォークやナイフで上手くタルト地を切れなかった時に無常に鳴り響く鐘のようなあの音が。皿とカトラリーの発する甲高い不協和音に、皆様すみませんとなるからだ。

 しかし今回は、さっくりとしつつもボロボロこぼれてこない、程よい硬さの生地が快くフォークを受け止めてくれる。

 イチゴ、クリーム、生地がいっぺんに口の中へ。

 ちょっと甘酸っぱいイチゴ。こってりし過ぎない程よい甘さのクリーム。しっかりと文字通り土台となるようなタルトの生地の甘さ。

 口に運んで楽しみ、紅茶で口の中の雰囲気を変えてまた楽しむ。味わいつくすのは一瞬だった。


 最後にしげしげと例のポエムを眺めてみる。この短い詩のようなものは、美味しいものを食べた後の余韻に似ている。


「洋梨もおいしかったけど、いちごもすごく、すごい……」

「洋梨……そういえば手嶌が何か言ってたわね。この詩みたいなのとメインの食材調達は彼がやってるのよ。変なやつだったでしょう」

「へー!そうなんですか!見た目によらず……」

 キザだ。でもよく考えたら見た目通りだったので、私の言葉はしり切れトンボになった。


 私と星原さん2人きりの店内。少し会話の間が生じた時に、不意に彼女が声を上げた。

「あらあ、夕焼け、まだ残っていたね」

 微か、夕焼けの残滓が雲の合間、窓の外から漏れてきていた。もうすぐ日も暮れてしまうはずだ。


 あの老夫婦は今頃どこにいるのだろう。

〝果ての果てで摘んだいちごを使った〟タルトを2人分大切そうにぶら下げて。

 きっと……。きっととても幸せな気持ちの帰路についているのだろう。あの笑顔を見たわたしには、確信できた。それが生きているわたしたちの世界とは違う何処かへの帰路なんだとしても。




 夕焼けがすっかり夕闇に変わった頃に星原さんに聞いたところ、やはり彼女は店長さんなのだそうだ。

「この店は、あたしと、手嶌と、あともう一人でやってるのよ。今度は良かったら和菓子も食べてみてね。」


 和洋菓子を扱ってるのは、やはりちょっと変わっているというか、なんとなく昔堅気なのか?というか。今どきはチョコレート専門店とか、何かにつけて専門店が多い気がするから少し不思議だった。

 ただ、どちらにしても甘いもの大好きなわたしには僥倖ぎょうこうなことだ。

 ありがたい出会いを、ひたすらにありがたがることにしようと思う。幽霊とかは、おいといて。

「ええ、もちろん、また来週も来ます、……」

 週初めのことを思った。が……これまた、だるい。

 部長の朝礼のお小言が二割増なのが通例だからだ。

「……」



 ――結局。

 わたしは、タルトフレーズをお土産に買って帰った。

 もちろん、自分用に。月曜日の憂鬱をぶっ飛ばすために。

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