最終章「旅立ち、そして……」
スキナベは少女と向き合って座っていた。
窓辺の椅子。少女と紅茶を飲んでいた。
「この場所が最後だったんだ」
少女は窓の外を見ている。
「あんなバイオリンのために、僕もジーンもこの部屋が最後だった」
開けられた窓から風が流れ込んで、少女の帽子からこぼれる髪を揺らした。
「あんなバイオリンさえなければ、あんな物は必要なかったんだ」
スキナベの目からポロポロと涙がこぼれた。零れる涙を拭う事もせず、テーブルの上で両手の拳を握りしめた。
「あんな物さえなければ、あんな物さえなければ」
悲鳴のような泣き声が、空気を震わせていた。悲しみと怒りと悔しさの叫びだ。
少女は静かに言った。
「それは違うわ」
「何が違う。全て事実じゃないか」
スキナベは流れ落ちる涙を拭い、大声を張り上げていた。
少女はゆっくりと立ち上がると帽子を脱いだ。少女の身体の周りから淡い光が立ち上り、陽炎の様に揺らめいた。スキナベは目を擦りながら少女を凝視した。
「君、は?」
少女の身体を包み込む淡い光はやがて輪郭を作り出し、真っ白なドレスを着た女性を浮かび上がらせた。女性はにこやかに微笑むと、優しさに溢れた声で話し始めた。
「あなたの本当の名は、スキナベでもソロディンでもありません」
「な、何?」
女性はにこやかに微笑んだまま続けた。
「今のあなたの名は、聖ヘレナ修道院初代院長ルイーザがあなたの本当の名を隠すために付けたにすぎません。あなたともう一人の幼子の命を守るためには、最善の方法だったのでしょう」
「もう一人の幼子?」
「あなたはサルディーニャ王家の三英雄の一人シュゼッペ・ガリバルディの末裔。そしてもう一人がサルディーニャ王家の王妃カテリーナの血を引く唯一の生き残り。あなた達の赤い糸は、生まれる前から結ばれていたのかもしれません」
「まったく何のことか、ばかばかしい。俺が三英雄の末裔? そんなことを信じると思うのか?」
「信じられないのも無理はありません。全てが隠された事実なのですから。あなたは幼い頃より施設で育てられ、何一つ過去を知らされていなかったのですからね。でも、あなたにはその過去を知る権利と勇気を持ち合わせています。あなたが知るべき事実を探し、そして勇気をもって判断しなさい。必ず道は開かれます。解りますね」
「知るべき事実?」
女性の身体から再び淡い光が立ち上り、その後にはバイオリンが残されていた。
スキナベは、バイオリンを拾い上げ、ゆっくりと弾きはじめた。混乱した頭の中の霧が晴れるようにいつしか夢中でバイオリンを演奏していた。無心で弾いているうちに、いつしか夜になり、スキナベは導かれるようにバイオリンを持ってボーダーに向かった。
「今、あなたのお家に行こうかと相談してたの」
カウンターに座りながらシィとノリエが振り向いて言った。エムルはロッソの椅子に座りスキナベを見ていた。
「僕も話しがあって」
「何かあったの?」
スキナベはシィの隣に座り、バイオリンをカウンターの上に置いた。
「うん、さっきこのバイオリンの二つ目の魂らしい女性に逢った」
「女の子と違うの?」
シィは、バイオリンに優しく触れ、そして言った。
「魂は一番幸せだった時の姿で現れるわ。女性ならあの少女とは違うわね。それで何か言ったの?」
「うん、知るべき事実を探しなさい、と」
「そう、で、名前は?」
「名のらなかった。白いドレスを着たとても綺麗な人だった」
ノリエもエムルも何も言わなかった。
「それで、僕に何か?」
スキナベはシィに尋ねた。
「これを」
そう言ってシィは小さな十字架のペンダントを差し出した。黄金で出来たそのペンダントには、小さな刻印と名前が彫られていた。
『ソル・エ・ディーン 親愛なる王家の証として シュゼッペ・ガリバルディー』
「あの花が姿を変えてそのペンダントになっていたの」
スキナベがペンダントを受け取ると、溢れるような優しさと思いが伝わってきた。
「どうしてこれを僕に?」
「エムルが言ったのよ。それはスキナベさんのだって」
エムルはカウンターの奥から出てきてスキナベに言った。
「ねえ、バイオリンもう一度聞かせて」
「うん。僕もそのつもりで来たんだ。みんなに聞いてもらおうとおもって」
スキナベはケースを開け、バイオリンを取り出し、代わりにペンダントをケースの中に置いた。
店内はしんと静まり、スキナベの演奏を待っていた。
ゆったりとした、流れる様な動作で、スキナベはバイオリンを弾きだした。その曲は今までスキナベが弾いていたものではなく、まったく違う優しさと優雅さの曲であった。曲が始まってほどなく店内は異常な明滅に包まれた。まるでクリスマスのツリーの様な輝きだ。
「どう言うこと?」
シィは不思議な感覚に冒され、今までに無い、魂たちの思いが溢れているように感じた。ノリエは、知らぬ間に流れる涙を、拭うことさえしなかった。エムルは、棚の下の壁にもたれ、膝を抱えてじっと聞いていた。明滅は、一層激しくなり眩しいくらいの光が店内を埋めた。
やがて、店内のいたる所でガラスがはじける小さな音が聞こえる。明滅と光の渦は、少しずつ小さくなり、曲の終わりとともに消えていった。シィはあわてて棚に置いてあった、いくつもの魂の結晶を見た。結晶はみんな粉々に砕け、細かな砂の様になり、キラキラと輝いていた。
「どうしたんですか?」
演奏を終えたスキナベは、シィに尋ねた。シィは砂になったキラキラ光る結晶をすくい上げ、スキナベに見せた。指の間から零れる、輝きの粒。光の軌跡のように、床に広がっていく。
「これは?」
「救ったのかもしれない。行き場のなくなった魂たちを、救えたのかも知れない」
「でも、砕けているよ」
「うん。この子達は忘れられ捨てられ、そして、行き場をなくし、夢や希望を忘れ、いつか自身の輝きを無くしてしまうの。でも、ほら、この子達は輝きを失っていない。感じて。夢と希望に溢れている」
スキナベは、両手でそのキラキラ輝く砕けた結晶を受け取った。溢れるような思いと優しさが突き抜ける様に、身体の中へ入ってくる。
壁にもたれ、じっとバイオリンの音を聞いていたエムルが、ゆっくりと立ち上がりながら言った。
「みんな行くところが見つかったんだ。そうだよ。天国に行くことが許されたんだ」
エムルは涙を流しながらにっこりと微笑んだ。
「どうして?」
「昔、聖母と呼ばれた人がいたことを聞いたことがある。人を愛し平和を愛したと。修道院で育ち、一度も修道院から外へ出ることも無く、その生涯を終えたと。確か名前がセリーナ・エマヌエル」
「セリーナ?」
「そうセリーナ、出生の証拠は何も残されていない。そして、彼女には癒しの力があったとか」
「そのバイオリンに宿っているもう一つの魂が、きっとセリーナだと思うよ。僕にはわかるよ」
「でもなぜバイオリンに?」
「それは解らないわ。でもステラなら知ってるかも」
「ステラ?」
「そうあの少女の名前。最初の持ち主が名付けたステラ」
「ステラ」
スキナベは愛しそうにバイオリンを触れケースに戻し、ケースの上にペンダントを置いた。その時、ノリエが持つ郵便カバンが輝いた。
「誰かに手紙が来たわ」
ノリエはカバンを開けた。
「……」
「どうしたの? ノリエ」
「一度に四通も手紙が来ている」
「誰に?」
「まあ、なんてこと!」
ノリエの目に見る見る大粒の涙が溢れた。四通の手紙をカウンターの上に置いて、ドアを飛び出していった。
「ノリエ!」
「いいよ、エムル」
「だって」
「きっと、すぐに戻ってくるわ」
エムルはシィが差し出した二通の手紙を受け取った。一通はエムル自身に、そしてもう一通がノリエに来ていた。エムルもノリエと同じようにドアを飛び出していった。
シィは一通をスキナベに差し出した。
「僕に?」
「そう。これは私に」
シィの目にも涙が溢れていた。
しばらくすると、エムルとノリエが戻ってきた。
シィとスキナベはテーブルの椅子に座って待っていた。ノリエとエムルも同じテーブルに座った。
「二人ともまだ開けていないの?」
エムルが、テーブルに置かれたままの手紙を見て言った。
「うん、どっちに行くのか不安だから、みんな一緒に開封しようって、スキナベさんと決めたんだ」
「僕とノリエはもう決まっているよね。だって行けるのは天国しかないもん」
エムルはハーモニカを握り締めながら言った。
「あたしもおんなじ、後はバスに乗るか乗らないかだけだもん」
ノリエは困ったように呟いた。
「そうなのか。バスはいつ来るんだろ」
ノリエが呟いた。
「あたしは乗らない」
シィもスキナベも凍りついたように言葉が出なかった。
「だって、あたしは行くところがないんだもん。待っていてくれる人がいないんだもん」
「でも、こんなチャンスはないんだろ?」
「あたしはここに残る。また、郵便屋としてここでみんなに手紙を渡す。それが、あたしの役目」
「ノリエがそう思うなら、それもいいのかも知れない」
ノリエは手紙を半分にやぶってしまった。
「あっ」
破れた手紙は小さな陽炎になってノリエの手の平の上で消えてしまった。エムルは、ノリエのそんな行動にうつむいたまま呟いた。
「ノリエだって逢いたいと思っているんでしょ。なのに、なのに」
「あたしはいいの。いまが充分幸せなんだから。さあ、エムルはいつのバスに乗るの?」
エムルは首を振りながら言った。
「僕も乗らない。ノリエガ乗らないんだったら、僕も乗らないから」
そう言って、手紙を破ろうとした。
「ダメ、エムル!」
ノリエはエムルの手から手紙を奪い取った。
「だって、だって!」
「だってじゃないの。あんたには待っている人がちゃんといるでしょ。ロッソじいさんは、ずっと待っているわよ」
エムルの顔が見る見る青ざめた。
「そうだよ、エムル。君にはロッソじいさんがいるでしょ」
シィは、エムルの肩に手をおいて優しく言った。
「でも」
「あたしは、エムルみたいに暇じゃないの。やること一杯あるんだから。あんたはロッソじいさんと日向ぼっこでもしてりゃあいいのよ」
ノリエは目に涙を溜めながら笑って見せた。
「ロッソじいさんが言ったんだ。息子みたいに思っているって、一緒に暮らしたかったって」
「ほら、ごらん。あんたは天国にいきなさい」
「うん」
ノリエはエムルの手紙を大切そうに返した。
「シィはどうするの?」
エムルは涙声のまま尋ねた。
「私はどっちでもいいかな。天国でも現世でも」
シィは静かに封を切った。中から銀色に光るキップが出てきた。
「私もエムルと一緒ね」
「天国?」
「うん、エムル一緒にバスに乗ろうか。ロッソじいさんにもおばあさん達にも逢いたいしね」
「おばあさんって?」
「ないしょ!」
エムルの顔に笑顔が戻っていた。
「最後、ソルの番だよ」
「スキナベさんはどっち?」
「さあ、開けて、開けて」
スキナベは手紙を握り締めたまま黙っていた。
「どうしたの?」
「僕は」
誰もがスキナベの次の言葉を待った。そしてその言葉を疑った。
「僕は、現世には戻らない。愛した人を救えなかったし、それに」
「それに、何よ!」
ノリエが怒ったように叫んだ。
「それに、愛した人が天国にいるならそこに行きたい」
スキナベの気持ちが痛いほどわかる三人は、何も言い返せなかった。
「僕は愛する人を亡くした。この街にジーンがいないのは、現世に戻るチャンスも無かったんだと思う。彼女は、ジーンは、きっと先に天国に行って待っていてくれている。だから、だから、もしこのキップが現世に戻るキップだったとしても、僕は戻らない。ジーンに逢いたいから、すぐにでも逢いたいから」
スキナベはポロポロ涙を流しながら大声で泣いた。
「まだ、決まったわけじゃないんだし」
「そうよ。まだ封を切ってないんだし、さあ開けてみてよ」
「そうだね。開けてみるよ」
スキナベは、手紙の封を切った。中からオレンジの光が漏れる。そっとキップを引き出した。それは現世に戻るためのキップだった。
「あっ」
「僕も、ノリエともう暫くこの街に残るよ」
キップを二つに破ろうとした。
「だめー、絶対だめ」
エムルがすごい勢いで飛びつき、キップを奪ってしまった。
「絶対だめ。もし、キップを破るんだったら、僕も行かないもん。天国に行かないもん」
エムルは絶叫した。
「エムル、返しな」
ノリエが奪い返そうとエムルに近づいた。
「いやだ。返さない。バスに乗るって言うまで絶対に返さない」
エムルはノリエの手をすり抜けて、カウンターの奥に逃げ込んだ。
「キップを破らなくても、乗らなきゃ終わりなんだろ」
シィは小さく呟くスキナベに頷いた。
「そうね。でも。エムル、返しなさいって言わないから出ておいで。もう一度話しをしようよ」
ノリエと睨み合っていたエムルは椅子の陰から顔を覗かせた。
「本当?」
「うそ言わない。早く出ておいで」
「分かった」
エムルはノリエを警戒するようにそっと出てきた。
「ノリエも座って」
「うん、分かった」
「ねえスキナベさん。一度、考えてみてくれるかな。ロッソじいさんが最後に言った『自分の運命と向き合え』 って事。それにバイオリンと一緒に来た二つの魂のこと。私は、何かを伝えたかったんだと思うの。私には解らないけど、きっとあなたには『戻る理由』 があるはずよ」
「戻る理由?」
「そう戻らなければならない理由。ロッソじいさんはその答えを知っていたのかもしれない。戻らなければあなたの運命は完結しないのよ、きっと」
「それが運命と向き合うこと」
「さあ、エムル。キップをスキナベさんに返しなさい」
エムルはしぶしぶキップを出した。
「絶対、破らないでね。約束だよ」
「分かったよ、エムル。キップは破らない」
キップをスキナベに差し出した。
「さあ。みんな。天国行きは明日の朝。現世行きは夕方だから」
「あすの朝早くもう一度会いましょう。スキナベさんはそのときまでに決めればいいんだし」
「うん」
「もう一度考えてみるよ」
スキナベはバイオリンを持って店を出て行った。
「ソルは戻るかなぁ」
「わからないわ。決めるのは彼なんだから」
「そうよね。さあ、明日も頑張るか」
ノリエは店を出て行った。
「エムル、ロッソじいさん、今ごろどうしてるのかな。おばあさんと一緒に仲良く暮らしているのかな」
「うん、仲良く一緒にいると思うよ」
二人は店を出て、満天の星空を見ていた。
しんと静まった部屋の中。スキナベは窓辺の椅子に座った。
「あの日もここに座って外を見ていたんだ」
スキナベの目にはあの日のジーンの姿が映っているようだった。
月明かりに照らされたジーンの横顔。にこにこ微笑みながら話す仕草。寄り添って来た時の温もり。その全てがスキナベの中に蘇ってきた。
「ジーン、僕のジーン」
テーブルの向かい側に、優しく微笑むジーンがいる。
そして、長い夜が明けた。
エムルは、ボーダーの前で壁にもたれて座っていた。大切そうにハーモニカを持っている。
「エムル、おはよう」
エムルは、何も言わずにそのまま座っている。スキナベはエムルの横に同じように座った。
「エムル。どうして君は、僕が戻ればいいと思うんだ?」
エムルは、悲しそうにスキナベを見て言った。
「どうせ、説得したり、言い訳したりするんでしょ。大人はみんな同じなんだから」
スキナベは、そんなエムルをくすっと笑った。
「どうして笑うの!」
エムルは口を尖らせて怒った。
「ごめん、ごめん。実は、まだ決めてないんだ。エムルに、理由を聞いてからでもいいかなって思ってね」
エムルはにこっと笑った。
「で、どうして?」
エムルは少し考え込んだように答えた。
「わかんない。でも、僕と違ってあの女の子ステラは、ソルを連れ戻しに来たんじゃないかと思うんだ」
「どうして、そう思うの?」
「わかんない。そんな気がしただけ。僕は、そばにいたくてついて来たけど、あの子は違うの。僕は長い間一緒にいたよ。死んじゃったけど、一人で天国に行っちゃったけど。でも、ソルはそんなに長い間一緒にあの子、あのバイオリンと一緒にいた?」
「そうだね。僕はたった一度しか弾かなかった。一緒だったのはたった一夜だけだったよ」
「なのにどうしてあの子はついて来たの?」
「そうか、理由がないよね」
ふっとため息を継ぎ、スキナベは空を見上げた。小さな雲が青空を泳いでいる。
「エムルもう一度ハーモニカを吹かせて」
「うん、いいよ」
エムルは服で一度磨いてからスキナベに渡した。スキナベはハーモニカを受け取るとすぐに吹き出した。可愛いエムルをイメージした様な曲だった。
「ハーモニカもお上手なんですね」
いつのまにかシィがすぐ横に立っていた。
「おはようシィ」
「おはようエムル、スキナベさん」
シィもボーダーのドアにもたれて座った。
「いい天気ですね」
「おはようシィ。昨日はありがとう」
「とんでもないです」
シィは照れくさそうに手を顔の前で振った。
「ノリエ、遅いね」
「色々お世話になったから、ちゃんとお礼言いたかったのに」
「僕も」
「もうすぐバスが来るよね」
「うん」
「ノリエがこの街に残るって言った時、やっぱりなって思ったんです」
シィがうつむきながら言った。
「どうしてですか?」
「ノリエは捨てられたんですよ、ホントは」
「捨てられた?」
「ハイ、詳しくは知らないんですけど。いつか、ロッソじいさんが言っていたんです。ノリエガ可愛そうだって」
―― ドンドンドン!
「ちょっと、誰よ。ドアが開かないじゃない!」
シィがもたれていたボーダーのドアの奥からノリエの声が聞こえた。
「あ、ごめん」
シィは慌てて立ち上がり、ドアから離れた。スキナベもエムルも立ち上がった。
「何が捨てられたよ。あたしが見切りをつけたのよ!」
ノリエの声にみんな笑っていた。スキナベは、エムルにハーモニカを返し、肩を抱いた。
「さあ、バスが来る」
シィは、ノリエの手を取って言った。
「ノリエ、本当にありがとう。いっぱい助けてもらって、本当にありがとう。ノリエと逢えて良かった」
「何、今さら言ってんのよ。そんなこと、今ごろ言われたって」
エムルもノリエと手を取った。
「ノリエ、僕もいっぱい遊んでくれてありがとう」
「何よ、せいせいするわ。じゃまものがいなくなって、今日からのんびりできるもん」
ノリエの目にはこらえ切れない涙が溢れていた。
遠くに霞むバスが見えてきた。ゆっくり左右に揺れながら、音を立てて近づいてくる。木漏れ日が、バスを照らし、何か話しかけているように見える。
「スキナベさん、それで」
「スキナベはスキナベ。シィはシィ。そんなこと、どうでもいいでしょ。さあ、バスが来たわ」
ノリエなりに気を使っていたのだろうか、スキナベの行き先を、話題から遠ざけようとしていた。
「いえ、決めました。エムルと話して。なあ、エムル」
「うん?」
「戻ることにしました。天国にはいつか行けるでしょう。ジーンも、少しくらい待っていてくれます。元の世界に戻って、自分の運命と向き合ってみます」
エムルはにこにこ笑っていた。
音を立てて、バスが止まってドアが開いた。
「じゃあ、ノリエ、スキナベさん。行って来ます。っておかしいかな」
「ソル。ノリエ。本当に、ありがとう」
ノリエとスキナベは黙って手を振った。バスのドアが静かにしまり、そして動き出す。
「エムル、ロッソじいさんに宜しく言っといてよ。それで、それで、えっと、ありがとう。楽しかった」
ノリエは、バスの跡を追って走り出した。柔らかい朝の光の中、バスは銀色の光に包まれ、やがて陽炎のように消えていく。
ノリエは石畳の真ん中で、力なくうずくまった。スキナベは、そんなノリエをじっと見つめていた。たった数日の間にこんなにも心を通じあわせることが出来たことを、本当に感謝していた。そして、またきっと逢えると信じていた。
「エムル、シィ、幸せにね。わたしこそ、ありがとう」
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