第十五章「忘却と記憶」

 アレクは追っていた。

 細い山道を、猛スピードで車を走らせている。

「ニコラス、大丈夫ですか?」

「平気だ、ほんの掠り傷さ」

 助手席に座るホームの顔色は、驚くほど青ざめていた。わき腹からは、夥しい血液が流れている。

「ここまで強行に出てくるとは予想しませんでした。私の読みが甘かったんです。本当に申し訳ありません」

 静かな言葉とは裏腹に荒々しく車は走っている。

「男爵はバイオリンがもう偽物だと気付いているだろう。あいつらが次に襲う場所は決まっている。俺のことは気にせずに急いでくれ!」

「傷に触るでしょうが、少しの間、我慢してください」

「勿論だ。あんな野郎に、我が一族と王家を蹂躙されてたまるもんか!」

 道から飛び出しそうになる車を懸命に操り、猛スピードのまま車は走る。


 同じ頃。スキナベは、応接室にジーンとフィリッポ神父。そして、アレクの部下とともにいた。

「犯人が奪っていったのは、ストラディバリウスではありません。アレク神官とニコラスさんが今犯人を追っていますが、偽物と解ったらまたこの場所に戻ってくるかもしれません」

 アレクの部下が言った。

「ニコラスって、ホームさんのこと?」

 ジーンが驚いて聞いた。

「そうです。ニコラス・ストラディバリウス。ストラディバリウス一族の方です」

「でも、なぜ?」

「簡単なことです。ストラディバリウス家は元々サルディーニャ王家に仕える楽士だったんです。一族の長のアントニオ・ストラディバリウスは、代々伝えられる王家の家宝とも言えるナンバー刻印の無いバイオリンを贈った人です。ニコラスはその家宝を守っていただけなんです」

「ソル! 盗まれたのがストラディバリウスでないのなら、今はどこにあるの?」

「セシルの所。アレクがケースを入れ替えて、ストラディバリウスだけはセシルの所に預けろって・・・」

「セシルって大家さん?」

「そうだよ」

「もしよ、犯人が偽物を掴まされたと知ったら次に襲う場所はどこ?」

「そうだ! セシルが危ない」

「急ぎましょう、こんなことに大家さんを巻き込むわけにはいかないわ」

 アレクの部下が二人の会話に割って入った。

「いえダメです。アレク神官からくれぐれも家には近づけないようにと命令されています」

「そんなことはどうでもいいわ! ソル早くセシルに知らせに行かないと」

「そうだ!巻き込むわけにはいかない。急ごう」

「し、しかし!」

「私たちなら大丈夫。危険だと思ったらすぐに逃げるから、ねえ、お願い早くセシルの所に行かせてちょうだい」

 有無をも言わせぬジーンの迫力に押されたのか、アレクの部下は同行する事で認めた。


 ジーンとスキナベの二人が帰ってきたときは、もうすっかり陽が落ちていた。石畳の坂道の途中で車を降り、歩いて大家のセシルの家に向かう。路地の角にある外灯にうっすらと照らし出されたオレンジの木が静かにたたずんでいた。

「静かね」

「おかしいですよ。警備の警官もいない」

 スキナベはこの静けさが逆に不安感が増すような気がした。

 三人は、まず大家のセシルの家の玄関先に向かった。金属の門扉の向こうは凍った様な静けさ。門扉を抜け玄関ドアをノックしても、静けさは何一つ変わらなかった。

「いつもならすぐに出てこられるのに」

 ドアは鍵がかけられ、硬く閉じたままであった。

「やはり様子が変です。注意しましょう」

「裏庭の方に回ってみるわ」

 ジーンが駆け出すのを静止し、アレクの部下は言った。

「三人で行動しましょう。別行動は危険です」


 門扉をくぐり元通りに閉じた後、路地から裏庭に向かった。

 裏庭の周りには背の低い生垣があり、ジーンでも少し背伸びをすると中まで見渡せた。しかし、陽も暮れ、辺りに灯りが無かったため、奥のほうまでは見通すことは出来なかった。生垣の切れ目に小さな木戸があり、三人はそこから裏庭に入って行った。こちらもやはり人影も無くシンと静かであった。

 庭の奥にはドーム状の屋根にテーブルと椅子があり、その周りはバラの生垣に囲まれている。セシルがよくこの椅子に座って本を読んでいるのをジーンは思い出した。今は、その椅子が暗がりの中で浮き上がるようにたたずんでいる。裏庭から入る扉もやはり硬く閉じられていた。

「どうしたのかしら」

「家に戻ろう。こんなところを襲われたら逃げ場が無い」

「そうですね。それが安全かもしれません」

 三人は再び裏木戸を抜け路地へでた。

 ジーンとスキナベの二人の家は、何事も無いようにたたずんでいる。二人が、家を出たときのままである様に思えた。

「鍵を貸していただけますか。私から入りますから」

 スキナベはポケットから鍵を取り出してアレクの部下に手渡した。

「少し下がっていてください」

 そう言ってアレクの部下は鍵を開け、静かにドアを開いた。ゆっくりと安全を確認するように部屋の中へと入って行った。

「出て行った時のまま」

「そうだね。バイオリンケースも置いていったままだし、カーテンや椅子の場所も変わってない」

「誰も侵入していないと言うことですね。私は連絡を取りに行って来ます。すぐに戻ってきますから、それまでは誰も部屋には入れないでください」

「解りました」

 アレクの部下は急いで部屋を出て行った。スキナベは玄関先から見送ることもせずに、すぐにドアを閉め、閂をかけた。

「どうしたのかしら大家さん」

 ジーンは窓辺の椅子に座り、じっと外を見ていた。見慣れた角のオレンジの木がぼんやりと揺らいでいた。


 時間だけがゆっくりと通りすぎている。

 二人は固まった様に窓辺の椅子に座り、ただ窓の外を見ていた。アレクの部下が出て行ってからもう既に一時間以上過ぎている。二人ともが気になり始めていた。

「紅茶でも飲む?」

「ワインを少しにしよう。色々あって気が張っている」

「そうね」

 ジーンは買い置きの赤ワインとチーズを用意していた。

「マスターもホームさんもどうしているのかしら」

 ワインをグラスに注ぎながら、ジーンは涙目になっていた。

「このまま、待っているだけでいいのかな」

「今はしかたがないよ」


 二人は再び窓辺の椅子に座り、外を見始めた。二人ともワインも飲まず、ぼんやりと角のオレンジの外灯のあたりをみていた。時刻は深夜と言っていい時間になり、しんと静まり、凍った様な暗闇が広がっていた。

 スキナベが何度目かワインを揺らしている時、路地の角にある外灯の灯りの中で、一瞬影が揺れた。オレンジの木の影が風にゆれたのかそう思った瞬間、再び灯りの中で何かが動いた。

「ジーン、誰かいる」

 ジーンは反射的にオレンジの木の下を見た。オレンジの木の影が風でゆっくりと動いている。その中で別の何かが確かに動いていた。

「誰?」

「ジーン、灯りを消して」

「うん」

 部屋の中は月明かりだけになった。

 二人は窓辺からじっと目を凝らして外のオレンジの木の影を見つめた。何者かが走る音が聞こえ、別の方向から路地の暗がりに入って行った。

「ドアの鍵を見てきて」

 スキナベは、窓に鍵をかけ直した。窓は高い位置にあるため、直接は入って来れない。誰かが来たとしても、玄関下の階段を上がらなければいけないので、すぐに誰かわかる。しかし、路地の暗がりはまったくの死角になるため見えない位置になる。

「二人以上いるようだ」

 ジーンはスキナベの背中に隠れるようにして、窓の外を見ていた。

「ジーン、もし誰かが入ってきたら、奥の部屋に入って鍵をかけるんだ」

「うん。でも、あなたは?」

「今は、どうすれば良いのか分からない」

 オレンジの木の下も路地の入り口も何も変わらない。風が通り抜けオレンジの木が揺れた。

「ガシャン!」


 静けさを切り裂く、突然のガラスが割れる音。セシルの家の裏口付近から聞こえた。

「ジーン、見てくる。僕が出た後は鍵をかけて、隠れていて」

「でも」

「大丈夫。心配しないで。すぐに戻ってくるから」

 スキナベは入り口ドアに静かに近づき、ゆっくり開け、そして足音を忍ばせ出て行った。ジーンはすぐに閂をかけ窓辺に戻ってスキナベの姿を追った。スキナベはちらりと窓に目をやると暗がりに消えていった。


 スキナベは壁沿いの暗がりに隠れながら、静かにセシルの家の裏庭に近づいた。先ほど来た時、閉めていたはずの木戸が開いている。足音を忍ばせ、バラの生垣伝いに隠れながら裏の入り口を見つめた。灯りが届かない暗がり。はっきりとは見えないが、裏戸が開いているように見えた。家の中に誰かがいるのか、小さな明かりが見え隠れしている。

「誰かがいる」

 はっきり見ようとドームのテーブルを回り込んだ時、後ろから誰かに腕をつかまれた。そのまま、口を塞がれ、引きずられる様に強引に暗がりへ引き込まれていった。スキナベは自分の命が消えてしまうのを予感した。

「静かに私です。アレクです。声を立てないで」

 スキナベはゆっくりと顔を回し背後の人間を見た。

「アレクさん」

「申し訳ありません。この家の周りは部下が取り囲んでいます。大丈夫です」

「ジーンがまだ家に」

「そちらも大丈夫でしょう。シークレストはバイオリンが目的なんですから」

「犯人はシークレスト男爵なのですか?」

「そうです。シークレスト家と我々はもう何世代も争っています。今夜、その決着がつきます」

 アレクの言葉の半分も理解できずにいたスキナベは、ジーンは安全だとの言葉で力が抜けるように感じた。

「シークレストは、ずっとこの周辺を監視していたようです。我々の行動も、見抜いていたかも知れません。ハンナ孤児院の出来事も、ニコラスがいなかったら、まんまと嵌められていました。尻尾を掴ませない周到な計画は、抜け目がありませんでした」

 アレクは裏戸からまったく目を離さずに続けた。

「しかし、それももう終わりです。ニコラスはシークレストの執事の顔をはっきりと見ましたし、警備の警官を監視から見つからないようにしたのが、彼らの狙いをはっきりさせました」

 アレクはにこりと笑って見せた。

「屋敷の中には三人忍び込んでいます。ニコラスと争った執事の姿が見えないのが気になりますが、犯人が出てきたところを捕獲するつもりですが、シークレストが犯人と接触してくれればいいのですが」

 セシルの家の中で、明かりが慌しく動き出した。

「バイオリンを見つけたようですね」

「大丈夫なのですか? あ、あのバイオリンは」

「ご心配要りません。僕がセシルに預けろといったのは、精巧にできた偽物と交換するためだったんですよ。本物は、審問室の大金庫にあります。ニコラスが作ってくれたんです。わざわざクレモーナまで行ってね。弦を一本だけ本物と取り替えましたけどね」

 バラの生垣に囲まれていたため、物が焼ける匂いに気付かなかった。

「ん、煙り?」

 最初に気が付いたのはアレクだった。スキナベはその言葉に反応して辺りを見渡した。

「何か、燃えてるのか」

 スキナベは立ち上がって家の方を見た。ジーンがいる家だ。

「火事、家が燃えてる!」

 スキナベは走り出していた。

「しまった!」

 アレクもスキナベに続き大声で怒鳴った。

「突入しろ!」

 暗がりから数人の男達が飛び出しセシルの家へと入って行く。

 スキナベが裏木戸をくぐるとそこに男が飛び出してきた。男はいきなり現れたスキナベに驚いたのか立ち止まってしまった。

「あ、あなたは、執事」

 男は、反射的に走り出し、その場を逃れるように逃げ出した。路地の角から数人の男達が飛び出し、執事の行く手を阻む。

 火は窓のすぐ下から広がっていた。瞬く間に、壁一面が火に覆われていた。スキナベは玄関ドアに飛びついた。しかし、鍵がかかっていてドアが開かない。火は燃え広がりもう近づくことさえできなくなりそうだ。

「ジーン、ジーン!」

 火はどんどん燃え上がる。

「スキナベさん危険です。離れて!」

 後から来たアレクが、スキナベの腕を掴んで引き戻そうとしている。

「ジーン、ドアの鍵を外してくれ! ジーン」

 燃え上がる火の勢いで叫ぶ声さえかき消されている。

 スキナベは燃え落ちそうなドアに再び近づき身体ごと体当たりをした。ドアは勢いに負け家の中に壊れて開いた。燃え盛る部屋の中を、気を失いそうになりながら叫び続けた。

「ジーン、どこ。どこにいる、ジーン」

 火の海の中で、奥のドアが閉まったままなのを見た。そして、スキナベは自分の言った事を思い出した。

『僕が出た後は鍵をかけて、隠れていろ』

 スキナベは燃え盛る火の海の中で、意識が切れていくのを感じた。奥の扉まであと少し。しかし、ドアの前で繋ぎとめていた意識が完全に切れた。遠くで消防車のサイレンが聞こえる。スキナベを呼ぶ声も同時に聞こえた。



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