第十三章「追憶・青年の苦悩」
ジーンとスキナベは、朝の柔らかい日差しの中、ベッドでシーツに包まっていた。
ジーンの仕事先のパン屋は事件の影響で暫く休業。スキナベは一日だけの休暇を取っていた。
「ジーン?」
「なあに」
「今日、ヘレナ孤児院に行かないか? フィリッポ院長に婚約の報告をお話しに」
ジーンはスキナベに抱きついて答えた。
「あなたが本当に愛しい。こんなに幸せなのが信じられない」
「うん。僕もだよ」
朝のベッドの中で、こんなにゆっくり過ごせるのは、本当に久しぶりのことだった。いつもなら、ジーンがスキナベを起こさないように、静かにベッドを後にして、ジーンが出かけた後に、スキナベが目を覚ませた。今日の様に、二人ともがまどろみに沈んだまま朝を過ごすのは、何年もなかったことだった。
二人が出かける準備を終えたのは、昼近くになってからだった。
「バイオリン、どうしよう。持っていったほうがいいかな」
「うん、どうすればいいかな」
「アレクさんに相談してみようか」
「それがいいかも」
スキナベは窓から外を覗いた。アレクが言っていたように二人の男が路地の入り口と二人の家のすぐ近くにいた。
「聞いて来るから」
スキナベはすぐに帰ってきた。
「すぐに連絡して聞いてくれるって、少し待ってようよ」
「うん、暖かいオレンジソーダ飲む?」
「飲みながら、待ってようか」
窓辺のテーブルに座って、何気ない会話をしながら、アレクからの返事を待っていた。
三十分ほどでアレクからの連絡があった。連絡をしてきたのは、警備についていた人とは別の男がメモを持ってきた。
「アレク神官からの伝言です。出かける準備ができましたら、お知らせください」
連絡係りの男が一礼して出て行った。スキナベはメモを読んでから、ジーンに言った。
「さっきの人が車で送ってくれるって。ジーンは、これを持って先に車に乗っててよ」
スキナベはジーンに数枚の楽譜を渡した。
「僕はバイオリンの準備をしたらすぐに行くから」
古めかしい方のバイオリンケースをテーブルの上に置きながら言った。
「はい、先に乗って待っているね」
ジーンは、楽譜の挟んであるバインダーを持って部屋を後にした。
スキナベは、アレクからのメモをもう一度見ていた。ジーンが迎えの車に乗り込もうとしているときだった。その時、ドアをノックする音が聞こえた。返事をしてドアを開けるとそこにセシルが立っていた。
「聖ヘレナ孤児院に行くんだって? 気をつけて。これ、アレクから頼まれた物」
「ありがとうございます。じゃあお願いいたします」
スキナベはバイオリンケースを持ち、そして、ドアに鍵をかけ家を後にした。
聖ハンナ孤児院までほんの一時間ほどの道のりだ。街の外れ、山の麓の静かな森林地帯。林の中をしばらく走ると真っ白な外壁の建物が見えてきた。周囲には施設の子ども達が作った野菜や果物が一杯実った畑があった。
車は、建物の横を流れる小川の近くで止まった。畑仕事をしていた数人の子ども達やシスターが、仕事の手を休め止った車を見ている。建物の中から神父と数人のシスター、それにアレク・オワイランが出てきた。
アレクはニコニコ微笑みながら車のドアをあけた。
「フィリッポ院長がお待ちですよ」
「どうしてアレクさんがいらっしゃるんですか?」
「私もお二人の警護が仕事ですからね」
ジーンはシスターや子ども達と久しぶりの会話を楽しんでいる。
「さぁ、どうぞ」
シスターの一人が、二人を応接室に案内した。白い漆喰の廊下。板張りの床に足音が心地よく響く。
「すぐに院長はいらっしゃいます」
ニコニコ微笑みながらシスターが言った。
応接室は、ソファーと小さなテーブルがあるだけの小さな部屋だ。壁には一枚の絵があり、奥には窓が一つあった。スキナベたちが入って来たドアとは別に、奥の右側にもドアがあり、左側がフィリッポの執務室になっている。
施設の子ども達が二人、右奥のドアから応接室に入ってきて、紅茶とビスケットでもてなしてくれた。
「紅茶は、僕が入れたんだよ」
「ビスケットは、私が焼いたの」
自慢気に言いながら、笑っている。
「ありがとう」
ジーンは小さな子どもを膝の上に抱え、出されたビスケットをいっしょに食べている。
大きな観音開きの執務室の繋がるドアが開き初老の神父、フィリッポが室内に入ってきた。
「さあ、みんなもうお終いです。スキナベさんもジーンさんも大切なお話があるからね」
子ども達は元気な返事を残して、部屋から出て行った。
スキナベとジーンは席を立った。
「ご無沙汰しています」
そして、二人は深く頭を下げた。
「お二人ともお元気そうで、お噂はお聞きしていますよ。さ、お座りになってください」
「ありがとうございます。院長神父もお元気そうで」
「はい、ありがとう。それより結婚の約束をされたそうですね」
ジーンとスキナベは顔を見合わせた。
「はい、記念演奏会の後に結婚式を挙げようと思っています」
「それはおめでとう。あなた達が幸せになってくれるのは何より嬉しいことです。心から祝福しますよ。本当におめでとう」
「ありがとうございます。最初に院長にご報告できることが何より嬉しいです」
アレクがフィリッポに何か耳元で囁いている。
「ほう、ああ、そうですか。それは、それは」
フィリッポは、微笑みながら頷いた。
「スキナベさん、あのバイオリンはとても由緒正しきバイオリンです。女王の前で演奏するのに相応しい物です。素晴らしい演奏を期待していますよ」
「あのバイオリンの事をご存知なのですか?」
フィリッポは、微笑みながら言った。
「詳しい話は、あなた方お二人の結婚式が終わってからにいたしましょう」
スキナベは怪訝な表情をしたが、仕方なしに頷いた。シスターが一人入り口から入ってきて、フィリッポの耳元で囁いた。
「ジーン、それにスキナベさん。子ども達にお二人の演奏を聞かせてやっていただけませんか?」
「私、長い間、ピアノは弾いていません」
ジーンは心なしか不安気に言った。
「大丈夫さジーン。僕も一緒だから」
スキナベの一言で拍手が起こった。みんなの笑顔が二人は本当に嬉しかった。
この施設の中には小さいが立派な祭壇があり、ミサなどもいつもこの場所で行われていた。
スキナベとジーンが入ってくると静かに待っていた子ども達やシスターらが、一斉に立ち上がって拍手を贈った。シスターの一人が、スキナベとジーンを紹介しもう一度拍手で迎えられた。フィリッポは祭壇横の椅子に座り、同じように拍手をしている。アレクは入り口横で立って、それを眺めていた。
「みなさんこんにちは。ソロディン・スキナベです。今日はフィリッポ院長神父にお話があって来たんですが、まさかこんな立派な演奏会をさせていただけるとは夢にも考えていませんでした。それに今日の伴奏は、僕の最愛の人、ジーン・ハンナです」
再び拍手が沸き起こる。
「では、ジーンあの曲をやろうか?」
ジーンはニッコリ微笑んで頷いた。
小川を流れる清水のような静かな旋律が始まった。教会に相応しい厳かな流れのピアノ曲だった。スキナベは、その間にバイオリンの演奏準備をした。祭壇の真ん中で大きく深呼吸をすると、ピアノの旋律に入って行った。静かに流れる清流が大海に注ぎ込む大河に変わり、そして大海原を駆ける帆船の優雅さを思わせる旋律に変化していった。帆船は嵐に巻き込まれ木の葉の様に大波の中を漂い、そして嵐を抜けるとそこには緑の大陸が広がっていた。
そんな風景をイメージさせる曲だった。
曲が終わりスキナベとジーンが一礼すると割れんばかりの喝采が巻き起こった。二人は祭壇の真ん中で再び深く一礼する。ジーンは高揚した感情で、ほんのりと頬が紅く染まっている。スキナベも同様に気持ちが高ぶった笑顔を見せていた。
演奏会が終わり、二人は別の小さな部屋に案内された。外を流れる小川に面した小さな部屋で、食事の用意が終わるまで、暫く休んでいて欲しいと告げられた。二人で紅茶を楽しんでいるとアレクがやってきた。
「素晴らしい演奏でしたね。まさかジーンさんがあれほどピアノ演奏をされるとは知りませんでした」
「まあ、恥ずかしい。もう随分ピアノを触ってなかったんですよ」
ジーンは恥ずかしそうに言い訳をする。
「ところでスキナベさん、メモはお読みになりましたか?」
「勿論読みました。間違いありません」
「解りました。それを聞いて安心しました」
ドアをノックする音がする。
「お食事の用意が出来ました。子ども達と一緒ですが食堂にご案内いたします」
ドアの外からシスターの声がした。
「はい、参ります」
ジーンはシスターに答えた。
「アレクさん、バイオリンはどうすれば?」
「うちの者がドアの外で警備をしますので、この部屋に置いていってください」
「わかりました」
三人は窓やドアの鍵を確認し部屋を後にした。
食堂には大きなテーブルがいくつも並んでいた。それぞれのテーブルには子ども達とシスターが座って、スキナベたちを待っていた。
シスターに案内され、フィリッポの横に二人は座った。神父のフィリッポが立ち上がり、食前の祈りと挨拶をして食事が始まった。二人も同じようにお祈りし、食事を始めた。数人の子ども達が果物やパン、それに焼き菓子を籠に入れて持ってきた。フィリッポは、それらをにこにこ微笑んで、スキナベとジーンに薦めた。
テーブルの上に並べられた料理は、決して豪華な物ではなかったが、そのほとんどの食材が子ども達とシスターが丹精こめて実らせた物ばかりだった。
「スキナベくん。私はお二人が幸せになってくれるのを心から願っています」
「ありがとうございます」
「バイオリンのことも、全て今は話すことが出来ませんが、アレク神官がお二人を必ず導いてくれることでしょう。大きな試練の後には、必ず幸福の時間が訪れます。神と運命を信じることです」
「はい」
スキナベはアレクがこの食堂にいないことに気が付いた。個室から案内された後も、すぐそばで二人を微笑みながら見ていたはずだったが、いつのまにか姿は消えていた。ジーンは小さな子ども達に引っ張りだこになって、食堂の中をあちこち移動している。
もし、ジーンとこの孤児院を飛び出さなかったら、彼女はきっとシスターになっていただろう。彼女には聖母のような優しさと思いやりに溢れた女性だ。スキナベはそんなことを考えながら、ジーンと子供たちを見ていた。
食堂の入り口近くで、ジーンは数人の子ども達に囲まれ、楽しそうに話していた。小さな子が抱えきれないほどの大きな絵本を持って、ジーンに何か話している。きっと読んでとせがんでいるんだとスキナベは思った。小さな子から大きな絵本を受け取ると、ジーンは数人の子ども達と食堂から出て行った。
食堂内のテーブルは、空席が目立つようになってきて、多くのシスターたちがスキナベとフィリッポのそばへやって来ていた。さきほど開かれた演奏会のこと、二人の若いときのことなど色んなシスターたちの質問を、スキナベは笑顔を交えて答えていた。
「ジーン様もスキナベ様も、この施設に来られたことを覚えていらっしゃるのですか?」
一人のシスターが何気なく質問した。実際のところ、二人ともこの施設に来る以前の記憶はまったく無く、神父にも聞かされていなかった。
「いえ、ほとんど何も覚えてはいません。神父様、僕たちがここへ来た時の事をお話していただけませんか」
フィリッポから笑顔が消え、思い悩むような陰りがみえた。
「お二人は、数日の違いでこの施設にやってきました。先に来たのはジーンで、その二日後にスキナベさんが来られました。二人とも小さな赤子で預けられたとしか解りません」
「何も残っていないのですか? 両親のこととか」
「私の知っている限り……。お二人が来られて、すぐにお亡くなりになったルイーザシスターがお二人にお名前を贈られた事ぐらいですか」
スキナベの微かな記憶を紐解くように追いかけていた。
「じゃあ、僕もジーンも本当の名前ではないのですか?」
「そうですね。スキナベさんのファーストネームはまだこの国が独立する前に使われていた古い言葉で命名されたと聞きました。ジーンもその当時の女神の名を贈られていると教えられています」
「そうだったんですか」
「申し訳ありません」
「とんでもないです。少し動揺しただけで、お気を煩わせました。申し訳ありません」
その時、ジーンの叫び声が響き渡った。
スキナベは反射的に席を立ち、食堂を飛び出した。何人かのシスターが叫びながら通りすぎていったが、何を叫んでいるのかさえ解らないほどスキナベは動揺していた。悪いことばかりが脳裏をかすめ、見る見る顔が青ざめて行くのが自分でもわかった。細い廊下の向こうでシスターが何かを叫んでいる。スキナベは急いでそのシスターの方へ駆け寄った。そこは演奏会の後にスキナベたちが使っていた小川沿いの個室の前だった。ジーンが数人の子ども達に囲まれて座り込んでいた。
「ソル! 血が、血が」
ジーンに寄り添って、彼女が指差す方を見た。個室のドアは乱暴に開け放たれたままで、そのすぐ近くに血溜まりが出来ていた。ジーンを近くにいたシスターに預け、スキナベはドアに近づいた。ドアの前の血溜まりだけではなく、壁やドアにも血が付いていた。部屋の中も荒らされ、窓も粉々に壊れていた。テーブルの上に置いてあったバイオリンは跡形もなく、その姿を消していた。フィリッポが部屋に入ってきてスキナベの耳元で囁いた。
「この場所はもう安全ではないようです」
スキナベはこれだけの血が流されたにも関わらず、怪我人の姿が無かったのが気になっていた。
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