第十章「青年の苦悩」

 スキナベはボーダーでシィと別れて、しばらく誰もいない夜の街を散歩した。実際には、散歩ではなく頭の中の整理だった。スキナベが、この街に来てから奇妙で不思議な事ばかりが続き、それに伴うように、記憶が蘇ってきているのに気がついた。思いにふけりながら歩いているうちに、石造りの橋がかかる河に出た。欄干の上から河を見渡すと、河だと思っていたのは城の堀のようだった。霧の向こうに大きな城門が現れ、地響きのような音を立てながら巨大な門が開いていく。スキナベはその光景を橋の欄干を背にして、驚きの中で見ていた。

 渦巻く霧の中から、馬車が一台出てきた。馬車と言っても贅沢な作りのものではなく、実質的で粗末な馬車であった。馬が一頭と従者が一人テント張りの荷台、装飾など一切なく、今にも壊れそうな音を立てながら、スキナベの前を通り過ぎようとしていた。ところが突然、目の前で大きな音と共に車輪の片方が外れ、馬車は傾いたまま滑り、そして動かなくなってしまった。従者が降りてきて壊れた車輪を見ていた。スキナベは馬車に近寄り声をかけた。

「大丈夫ですか?」

 従者は深いフードを上げ、素顔を見せた。

「ありがとうございます」

「その壊れ様では、走るのは無理かもしれませんね」

 スキナベは壊れて外れかけた車輪を見ながら言った。

「そうですね。困りましたわ。どうしても今日中に隣町まで荷を運ばなくてはならないのに」

 霧がいつのまにか小雨に変わり、石畳を濡らし始めている。

「代わりの馬車か荷車はないのですか?」

「ないことはないのですが、取りに行く間、荷を放っておくこともできませんし」

「少しくらいなら、馬車の番をしていましょうか?」

 雨は少しずつ勢いを増している。

「宜しいのでしょうか。見ず知らずの方にこんなことをお願いして」

「留守番をするだけでしたら、 構いません」

「私は、聖ヘレナ修道院のルイーザと申します。一時間ほどで必ず戻りますので、ではお願いできますか」

「聖ヘレナ修道院?」

「王妃カテリーナ様のお建てになられたヘレナ修道院ですが、何か?」

「いえ、何でもありません。喜んで留守番をさせていただきます」

 荷台を引きずりながら、橋を渡った横にある木の下に移動した。二本の大きな木のおかげでほとんど雨にさらされることもない様になった。荷台と馬を外し、ルイーザは馬にまたがった。

「失礼ですが、お名前を」

「僕は、スキナベ、ソロディン・スキナベと申します」

「ソロディン・スキナベさん?」

「はい?」

「いえ、素敵なお名前ですね。一時間ほどで必ず戻ります。それまで宜しくお願いいたします」

「はい、解りました。気をつけて!」


 ルイーザは馬の腹を蹴り勢いよく走り出した。雨は一層強く荒々しくなっていった。

 スキナベは傾いた荷台に腰掛け、降る雨を見ていた。雨は激しくなる一方で空は真っ黒な雲に覆われている。雨はスキナベの座っている荷台にまで降り注ぐほどになってきた。荷台の荷物が気になりテントの中を覗いた。そこには灰色の布を被せられた大きな鍵の付いた木箱が置いてあった。荷台のテントのおかげでほとんど濡れていない。木箱には金属のプレートがはめられており、こう書いてあった。


『親愛なる我が子、マリアに捧げる。

カルロ・エマヌエレ』


「カルロ・エマヌエレ? サボイアの当主で初代国王の名前じゃないか?」

 スキナベは怪訝な表情で木箱に布を被せた。


 いつしか雨は激しさを弱めていた。程なく約束の一時間が過ぎようとしていた。一台の馬車と馬が走って近づいてきた。馬車はスキナベのいる木のすぐ前で止まり、馬はスキナベの傍らまでやってきた。大きなフード上げ、ルイーザが顔を見せた。

「遅くなってしまって申し訳ありません」

 馬から下りると丁寧に一礼する。一緒に来た馬車の従者は傾いた馬車から荷物の木箱を降ろしていた。

「ルイーザ様」

「スキナベさん、良かったら見てみますか?」

 ルイーザは微笑みながら言った。

「何をですか? それに大切な物のような気がしますが、僕のような見ず知らずの人間に見せてしまっても大丈夫なんでしょうか」

 ルイーザは微笑を絶やさずに話した。

「あなたが悪人なら、この木箱はもうどこかに行ってしまっていたでしょう。それにあなたのお名前は信用するに値するお名前のような気がしますが?」

「僕の名前がですか?」

 スキナベはルイーザの言葉の意味が解らなかった。

「お見せいたしますので、こちらへ」

 木箱は傾いた馬車から新しい大きな馬車に移されていた。荷台の中に木箱は収められ、布は被せられていなかった。ルイーザは首からぶら下げていた鍵で木箱の錠を外した。乾いた音と共にロックが外れ、閂が抜けた。ルイーザは蓋をゆっくりと開けた。

「バイオリン?」

「そうです。バイオリンです。アントニオ・ストラディバリウス作の制作ナンバー、刻印のないバイオリンです」

「刻印のないバイオリン?」

「アントニオは、現在までに数十本のバイオリンを製作しています。そのほとんどが『依頼主のない』バイオリンで、出来上がり次第誰かに買われて行きます。ところがアントニオが丹精こめ、誰かのために作ったものが刻印のないバイオリンです。このバイオリンはアントニオの友人サボイア家当主ヴィットーリオ・エマヌエレ二世の長女、マリア様のために作られたものです。サボイア家と初代王家の永遠の繁栄を願って作られた最高のバイオリンだと、アントニオ自身が言っていました。この奥にアントニオ自身のサインとマリア様のために造られたと記されています」

「ストラディバリウス。このバイオリン」

 スキナベはバイオリンから目を離す事ができなかった。

「ほんのお礼のつもりです。恐らく再び見ることはないでしょう。王家の家宝として永遠に祭られることになるでしょうね。ところで」

 ゆっくりと木箱は閉じられ、鍵がかけられた。

「……?」

「いえ、何でもありません。本当にありがとうございました。ではこれで、失礼いたします」

 ルイーザは馬にまたがり一礼をして走り出した。スキナベは走り去る馬車とルイーザを見つめていた。雨はいつのまにか霧に戻っていた。

「僕のバイオリンと同じ……」



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