第八章「いなくなった少女」

 ケースの中から、紫色のビロードに包まれた古いバイオリンが出てきた。薄いこげ茶の色合いは光沢さえなくしているものの、傷一つない。くすんだ光沢が一層の品格さえ感じる。それはとても、綺麗な状態であった。

「綺麗なバイオリン。木の命がそのまま残っているよう」

 シィは小さな感嘆をして、目を輝かせている。

「ねぇ、弾いてみせてよ」

 エムルはスキナベを見上げ服を引っ張りながら言った。

「そうね。ロッソじいさんのお別れ演奏会でもやってよ」

「ふぉふぉふぉ。それも一興じゃ。聞かせてもらえんかのう」

 スキナベはケースからバイオリンを取り出した。記憶には無いが、手に馴染む。そして、じっと見つめ囁いた。

「だめみたいだ」

「ん? どうしたんじゃ」

「弦が一本足りない。切れたままだ。代わりの弦も持ってない。やっぱり弾き方がわからない」

 スキナベはバイオリンをケースに戻した。

「それは、残念じゃのう。ま、仕方がなかろう」

 スキナベは蓋をして、ケースの誇りを掃おうとポケットのハンカチを探した。すると、ポケットから一本の糸が出てきた。確か昨日、少女がくれた風船につながれていた糸だった。

「昨日はただの糸だったのに。そうだろう君が。あれ? さっきの女の子は?」

 シィもエムルも周りを見渡して探したが、少女の姿はどこにもなかった。

 スキナベは再びケースの蓋を開けバイオリンを取り出した。そして、手馴れた手つきで弦をつけ始めた。エムルがそばでその作業の全てを感心しながら見ていた。記憶にない事を、身体が覚えている。全ての手順が正確に行われて行った。それでも、時折、手が止まり、思い出そうとするかのように、二度、三度と深い息を吐く。


「そろそろ時間じゃのう」

 ロッソはカウンターの奥にあった小さな四角い革のカバンを取り出した。

「もうそんな時間?」

 シィもエムルも慌ててロッソのそばへ寄って行く。

「みんなには本当に世話になった。礼を言わせておくれ」

 ロッソはカウンターから出て、スキナベに近寄って言った。

「スキナベさん、もう時間じゃ。バイオリンを聞きたかったが、もうバスが来る」

「ちょっと待ってもらうから、少しくらいは大丈夫よ」

 ノリエはそう言いながら店を出た。

「もう少しで弦が張れます。もう、少し」

 ロッソはスキナベの肩をポンと叩いて、ドアに手をかけた。そしてそのままの姿勢で呟いた。

「エムルや、どうかハーモニカを大切にしておくれ」

 エムルはハーモニカをポケットの中で握り締め頷いた。

「シィ、お前さんが助けてやったモノたちは、お前さんにきっと感謝しておるじゃろう。できるならこの街にいる間だけでも、助けてやってくれんかのう」

 シィは、流れる涙を手の甲で拭きながら頷いた。ロッソは静かにドアを開け、店を出た。

 いつのまにか、雨が降っていた。

「やっぱり雨を降らしてしもうたのう。できれば誰も泣かさん様に、この街を出て行きたかったんじゃが」

 慌ててシィとエムルは、ロッソに続いて店を出た。スキナベはバイオリンのコマのネジを回して弦の張り調弦をしていた。

「うん、これでいい」

 バイオリンを持ち、スキナベもロッソの後を追って店を出た。


 ノリエは、大きな背中を丸め、背を向けている。

 静かに降る雨の中、遠くからバスが走ってくるのが見えた。

「みんなありがとう。じゃが、考えてみてくれんかのう。わしは、ばあさんに会いに行くんじゃと。喜んでくれんのか?」

「そうよね。うん。大切なおばあ様に会いに行くんだもんね。喜ばなくっちゃ。ほら、シィもエムルも」

 ノリエは、溢れた涙を拭いながら、泣き笑い顔。振り向いて言った。

「だってぇー」

「そう考えればいいんだよね。うん」

 シィも納得したかのように、笑って見せた。

「あっ、虹!」

「ほんと虹!」

 降り止みそうな雨の中、うっすらと虹が見えた。

「みんなが泣き止んでくれたおかげで、笑って行く事ができそうじゃ」

 虹の色鮮やかな輝きの中から、一羽の蒼い輝くような小鳥がやってきた。小鳥はロッソの前を空中で羽ばたき、静止していた。

「お前も来てくれたのか? お前さんには本当に世話になってしもうたのう。この街へ来たその日から、お前さんとだけは毎日一緒におったからの」

 空中で静止していた小鳥の尾羽が、色鮮やかに伸びていき、同時に羽や身体が虹のような綺麗な模様が浮き出てきた。

「ほう、なんてことじゃ」

 小鳥はいつしか人の形を作り、ぼやけていた輪郭が鮮明になって行く。

「……」

 ロッソはその変化を驚きと不安の中で見ていた。

 みんなが見守る中、小鳥が飛んでいたその場所には一人の老婆が立っていた。

「お、お、お、おおおー」

 ロッソは、絶叫に似た泣き声が、あたりを包んだ。地面に両手を着き、ポロポロと子供のように泣き始めた。ロッソの見たその老婆こそ、ロッソが一生涯愛した女性、ファンドラであった。

「おじいさん、顔を上げてくださいな」

 ファンドラは、ロッソの前にかがみ込んだ。

「あたしはとても幸せでしたよ。淋しくも辛くも、悲しくもありませんでしたよ。わたしもおじいさんも精一杯、生きて来たじゃありませんか。それだけで充分ですよ」

 ロッソはファンドラに両手をつながれ、ゆっくりと立ち上がった。

「ばあさんは、わしを許してくれるのか?」

「何を言っているんですか。許すとか許さないとか。わたしは幸せでしたよって言っているじゃないですか」

「そうか、幸せじゃったんか。そうか」

 ロッソはポロポロ涙を流しながら笑って見せた。

「今日からはずっと一緒ですよ。後悔しても遅いですからね」

 ファンドラも笑った。

「そうか、ずっと、ずっと一緒か」

 バスが静かに近づいてきて、ロッソとファンドラの前に止まった。

「おじいさん、わたしは一足先に行っていますからね」

 ファンドラは小鳥の姿に戻り、ロッソやみんなの周りを何回か飛び回ると大空へ消えていった。ロッソは小鳥が見えなくなると、バスのタラップに立った。

 ノリエもシィもエムルも何一つ言葉が見つからなかった。

 スキナベは慣れた手つきでバイオリンを弾き始めた。その音色は透き通り、身体を通り過ぎる繊細で優しい響きを放っていた。

「ほう、とてもいい音色じゃて。スキナベさんしっかり自分の運命と向き合いなされ。きっとそれが一番の方法じゃて」


 バスのドアが閉まり、ゆっくりと走り出した。スキナベはバイオリンを弾くのを止め、走り去るバスを見送った。ノリエもシィもエムルもバスが見えなくなるまで、その場所を動かなかった。



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