第七章「弦の足りないバイオリン」
静かな一夜が訪れた。
スキナベは眠れない夜を過ごし、エムルは貰ったハーモニカを握ったまま夢を見、シィは光を忘れそうな魂に希望を与えつづけ、ノリエは何枚ものハンカチを無駄にして、ロッソは最後の旅の準備をしながら夜を過ごした。
そして、いつもと同じ、朝を迎えた。
いつものように街は霧に包まれていた。街が明るさを取り戻しながら、街そのものを作っている様であった。霧の一粒、一粒が街の材料でもあるか、朝の日差しが差すにつれ、その姿を取り戻して行く。
ロッソは小高い丘の公園のベンチに座っていた。愛用のパイプをくゆらせ、街がその姿を現すのを見ていた。どこからともなく小鳥がやってきた。鮮やかな蒼い小鳥だ。ロッソはポケットから一枚ビスケットを出し、手の中で粉々にして小鳥の方に向けて手を開いた。小鳥は一瞬戸惑った様にあたりを飛び跳ねていたが、やがて広げたロッソの手の方に近づいてきた。ロッソは数粒のビスケットのカケラを地面に落として見せた。小鳥は近づいて来るとビスケットをついばみ始めた。
「もう、今日が最後になるんじゃと」
小鳥は一つカケラを咥えベンチに座るロッソの隣りにやってきた。ロッソは手の中にあったビスケットを全部小鳥の前に置いた。
「せっかく仲良くなれなのにのう」
小鳥は咥えていたビスケットのカケラを離し、何度も傾げるようにロッソを見ていた。再びパイプのタバコをくゆらし、街を懐かしむように見る。
「じいさん、ロッソじいさん」
後ろから聞こえる声に、ロッソは振り返った。そこにはエムルが立っていた。
「エムルか。また、今日は早いのう」
「だって……」
エムルは黙ってロッソの横に座った。小鳥は席を空けるように反対側へ行った。
「ん? なんじゃ」
「だって、行っちゃうんでしょ?」
ロッソはパイプに蓋をしてポケットにしまった。
「手紙が届いたからのう。仕方あるまいて」
「うん、だけど」
エムルの目には大きな涙が光っていた。
「エムルや、ほら見えるじゃろ、尖がった塔の横の赤い屋根の家」
エムルはロッソの指差す方を見ていた。
「うん」
「あれはわしの家じゃった」
「そうなんだ。あの赤い屋根のお家」
「まあ、この街に来てから一度も帰っておらんがのう」
「どうして、帰らなかったの?」
「帰れんのじゃ。帰りたくてものう」
「……」
「わしはこの街に来るまであの家でばあさんと一緒に暮らしておったんじゃ」
「うん」
小鳥はまたビスケットのそばへやって来ていた。エムルはビスケットを小さく砕いて食べやすいようにしていた。
「仕事にかこつけてまったく家に帰らんかった。月に一か二度。帰っても着替えと洗濯物を交換するくらいで、話しもろくにせんかった。ばあさんはいつも青い毛糸で編物をしておった。何年経っても編物は出来上がらんかったのは、編んでは解き、解いては編んでおったんじゃろう。わしはそんなことも気付かんかった。ある日何週間ぶりかに家に帰った時のことじゃった。いつもはテーブルのそばに着替えの入った袋が置いてあるんじゃが、その日はそれがなかった。ばあさんが座って編物をしている椅子にもばあさんはおらんかったんじゃ。買い物でも行ったんじゃろうと思って、しばらくまっておった。わしは、ばあさんがいつも座っておった椅子に座って待っておった。少しばかり疲れておったんで、編み掛けの毛糸の山を枕に眠ってしまってのう、気がついたらあたりは暗くなっておった。帰ってこないばあさんを諦めて着替えを探しに洗濯場に入ったら、そこにばあさんがおったんじゃ。綺麗にたたまれたわしの着替えを持ったまま、壁にもたれるように眠っているように見えた。『ばあさんや、急ぐから早く着替えを袋に入れてくれ』って言ったんじゃ。でも、ばあさんは返事もせず、動く事もなかった。肩をゆすって起こそうとしたら、ばあさんは冷たくなっておった。ゆすったせいでばあさんはコロンと横になって、着替えがばあさんの手からこぼれ落ちた。その時、初めてばあさんが死んでおるのがわかったんじゃ」
エムルは大きな目をロッソに向けながら、大粒の涙を流していた。
「わしはばあさんの亡骸をばあさんの椅子に運んで座らしてやった。毛糸の編物を持たしてやろうと広げたら一着のセーターになっておったんじゃ。わしは恥ずかし気もなく大声を出して泣いた。一晩中、泣き続けた。ばあさんはきっと、編物が好きだったわけじゃなかったんじゃ。淋しかったんじゃろう、辛かったんじゃろう。きっと、編物をして気を紛らわせておったんじゃ。テーブルの上に若い頃の二人の写真が置いてあって、ばあさんはいつも変わらない気持ちでその写真を見ながらわしの帰りを待っておったんゃ」
「おばあちゃん、可愛そう」
エムルは涙を拭きながらしゃくりあげる声で言った。
「そうじゃのう、本当に可愛そうなことをやってしもうた」
「ロッソじいさん」
「ばあさんを亡くしてしまって、わしには帰る家がなくなってしもうたんじゃ。住んでいた家は『ただの入れ物』にしか思えん様になって、その場所にいるのが辛くなってしもうて、夜になると出かけてわしの居場所を探し回った。ある夜、歩道橋の階段を下りておるとき目の前を何かが飛んできてのう、足を滑らせて転げ落ちてしもうた。遠くなる意識の中で初めてばあさんに会いたいと思った。あとは、みんなと同じじゃよ、気がついたらこの街に来ておった」
エムルはポケットからハーモニカを取り出した。
「ロッソじいさん、このハーモニカ、僕が貰っていいの?」
「ああ、それはエムルが大切にしてくれればそれでエエんじゃ」
「ロッソじいさんの大切な物じゃないの?」
ロッソは一枚の写真を見せた。
「わしとばあさんの知り合ったばかりの頃の写真じゃよ」
「おばあちゃん綺麗。あ、ハーモニカ。ロッソじいさんもハーモニカ、持っている」
公園らしき所のベンチで微笑みながら写る若い二人写真。
「知り合ったばかりの頃、二人でよくハーモニカを吹いて演奏しておった。二人とも上手くはなかったが、一緒にいることが楽しかったんじゃ。そのハーモニカはばあさんにプレゼントするつもりで買ったんじゃが、結局渡せんかった」
「じゃあ、またおばあちゃんに会った時に渡せばいいのに」
「いいんじゃ。もう、時間がたちすぎたわい。それに、ばあさんに会えるなら、昔のままで会いたいんじゃ」
「一つお願いがあるんだけど」
「ん? なんじゃ?」
「このハーモニカを吹いてみて」
「ああ、貸してごらん」
ロッソは、静かに呼吸を整えるとハーモニカを口にあてた。
優しく心に染み込む音色が奏でられる。エムルはその演奏を聞きながら、また泣き出した。大きな涙の粒がポタポタと膝の上に落ちて洋服に染み込んで広がった。
しばらくすると、小鳥がロッソの肩に乗って、一声鳴いた。透き通った遥か森の奥にも、空の彼方にも届くような声で鳴いた。
「もう、いいかのう」
「うん、ありがとう」
ロッソはハーモニカをエムルの手の中に戻した。朝日はいつのまにか目の高さより高くなって輝いていた。
「さあ、最後に店を開けに行こうかのう」
「うん」
「エムル、気使ってくれて、ありがとう」
「ううん」
ロッソはエムルの手を引いて公園を後にした。
二人が去った公園で、蒼い小鳥が、先ほどまでロッソが座っていたベンチの背凭れにとまっていた。
ボーダーの店内では、三人がロッソの帰りを待っていた。
ノリエが座るカウンターの上には、山のようにハンカチが積まれてあった。シィはテーブルの上に両肘を立てて、その上に顎を乗せて座っていた。そして、スキナベは、じっと考え事をしているかのように隅の椅子に座っていた。
「五月蝿いわよ、ノリエ! 泣くんだったらもうちょっと静かに泣いてよ」
「しかたないでしょ! 今さら静かになんて泣けないわよ」
ノリエは反論しながら、また新しいハンカチで鼻をかんでいる。
―― ブヒー、ブブヒー
「それが五月蝿いの!」
「ふんっ」
「ん、もう。それにしてもどこへいったのかな。エムルまでいないのはおかしいよ」
「ブー、きっとビー、いつものブヒー、ところよ。もうすぐ戻ってくるわ。ブヒー」
ハンカチの山がまた一段と高くなった。
鐘の音と共にドアが開いた。ロッソは三人も店内にいたことに驚いた。
「どうしたんじゃ? みんなおそろいでのう」
「見送りに来たのに決まってるでしょ、ビー」
「それはありがたいのう」
ロッソはいつものようにカウンターの奥の椅子に座りパイプの掃除を始めた。エムルはカウンターの上の山になったハンカチを掃除バケツに一度にほりこんだ。
「あ、ありがとうエムル」
「バケツここに置いとくから、こん中に入れてよね」
「うん、わかった」
「それにしても、一体、何枚ハンカチ持っているの?」
あまりにもいつもと同じエムル。シィもノリエも混乱していた。
掃除が終わったパイプに、タバコの葉を詰め込み、火を点けながらロッソは言った。
「スキナベさん、昨夜は眠れたのかい?」
「いえ、ほとんど眠れませんでした」
「ま、それも仕方のないことじゃて」
「ノリエさんやシィさんにお聞きしたんですが、手紙とか旅行とか何のことなんでしょうか?」
ロッソはゆっくりとパイプの煙を吐き出した。
「この街が何であるのかは、わしらは知らん。ただ、この街に来た人にはいずれ必ず『手紙』 が来るんじゃ。手紙には一枚のキップが入っておって、二つの世界のどちらかに行くことになる」
「どちらかの世界って?」
「まぁのう、あの世か元の世界か、じゃが」
「あの世と元の世界って、おかしいじゃありませんか? みんなこうしてここにいるのに?」
「だから、あんたも死ぬか生き返るかどっちかってことなのよ! わかった?」
「死ぬか生き返るか?」
シィが、壁際の棚に乗った小さな鉢に手を添えながら話した。
「スキナベさんは、今現世では『深い眠りの中』 だと思うわよ。死の世界とも生の世界ともつながっていない状態なのよ。勿論、わたしもなんだけど」
「じゃあ、このまま死んでしまうこともあるってことですか?」
「わしん所へは、あの世からの招待状じゃったよ。決してその人が望んだ世界へ行けるとも限らんらしいの」
スキナベは混乱しているかのように、空を見詰めていた。
「もしかしたら、この街で何かをすることで、行き先が決められるのかも知れない。そうでなかったらこんな街必要ないじゃん」
エムルはシィの隣りに座って飴玉を広げていた。一つ摘まんで自分の口に放りこんだ。どこからともなく、少女の手が飴玉を一つ摘んだ。
「一つちょうだい」
いきなり現れた少女にエムルは驚いた。
「うん、いいけど。君、誰?」
少女は口に飴玉を入れ、小さく微笑んだように見えた。
「美味しい」
少女は壁際の棚の下にもたれるように座った。
「このあたりじゃ見かけん子じゃのう」
「あんた、どこから来たの? いつ入ってきた?」
「いいじゃん、そんなこと」
「良くないわよ。あたしの役目はね。あっ」
シィは少女に近づき話し掛けた。
「あなた、もしかして」
少女はすっと立ち上がってスキナベに近寄った。大きな帽子のつばがさえぎって、少女の顔は見えなかった。
「昨日の君かい? 風船をくれた」
「うん。ねぇ、バイオリン弾いてよ!」
「バイオリン? 僕はそんな楽器は持ってないし、弾けないと思うよ」
ロッソはスキナベから預かった黒いケースを見た。
「忘れちゃった?」
「忘れるもなにも、僕はバイオリンなんて弾いたことがないし、それにほら、持っていないよ」
スキナベは両手を広げて、何も持っていないのを見せた。
「昨日、預かったケースはバイオリンじゃなかったのかのう」
「昨日? そう言えば」
スキナベは棚に置いてある黒いケースに近寄って、そっと持ち上げた。そして、近くのテーブルまで運んだ。
エムルとシィがテーブルに近づいて覗き込む。スキナベの手は、二つあるロックを開けるところで硬直したように止まった。
「どうしたの? スキナベさん」
「なぜだか、開けるのが怖い」
「じゃあ、僕が代わりに開けてあげるよ」
エムルが手を伸ばした瞬間、スキナベはその手を払いのけた。
「イテ」
「あ、ごめん。自分で開けるから、うん、自分で開けなくちゃいけないんだ」
エムルは叩かれた手をさすりながら、口を尖がらせた。
二つのロックが乾いた音を立て一つずつ外された。そして、ゆっくりと蓋が開けられた。
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