第四章 第三部 追憶:バイオリンのつなぐ糸

 ジーンは大家さんに貰ったオレンジの果汁を温め、紅茶に入れて飲んでいた。

 窓辺に移動した揺り椅子に腰掛け、もう何度も読み返したお気に入りの本を膝かけに置き、スキナベの帰りを待っていた。指にはスキナベからプレゼントされた指輪が嵌められている。


 窓からはほんの少し離れた所にある大きな実をつけた街路樹が、ぼんやりと照らす外灯に映し出されていた。

 二杯目のオレンジ果汁のホット紅茶を飲みかけた時、外灯に照らされる影を見つけた。カップを窓辺に置き、読みかけの本にしおりを挟んだとき、ドアがノックされた。

 ひざ掛けと本を持ったままドアへ急いだ。

「はーい。今開けます」

 鍵を外し、ドアを開けると、そこに優しく微笑むスキナベが立っていた。

「お帰りなさい……」

 スキナベは何も言わずジーンをそっと抱きしめた。ジーンの手からひざ掛けと本が滑り落ち、代わりにジーンの手はスキナベの背中に回っていた。

「ただいま」

「うん、おかえりなさい」

「指輪、嵌めていてくれたんだね」

「うん」

「ありがとう」

「うん」

 ジーンにとって、今この瞬間に世界が終わってもいいとさえ思えるくらい幸せを感じていた。そっと二人は離れたが、手だけはつながったままだった。

「お腹、すいてない?」

「空いてる。ほとんど何も食べてないから」

「そう、いつものパンと生ハムしかないけど」

「僕はチーズとワインを買ってきた」

「素敵、うれしい」

「婚約記念日だからね」

「うん」

 ジーンの頬から大粒の涙がこぼれ落ちた。様々な記憶がよみがえる。嬉しい事、悲しい事、淋しい事、辛い事。その全てに、スキナベの記憶がある。いつも傍で優しく微笑むスキナベ。ジーンにとって、スキナベの存在そのものが幸せの証であった。

「ごめんなさい。凄く嬉しくて」

「いいよ。こんなに長い間待たせたのだから」

「うん。でも、ごめんなさい」

「食事にしよう。ジーンの焼いたパンと僕が選んだワインで乾杯しよう」

「うん、とてもうれしい。とても幸せ」

 二人は何度も何度も乾杯を繰り返し、幸せにひたった。

 夜は静かにふけて行き二人はお互いを肌で感じながら眠りについた。


 翌日は、朝からとても良い天気だった。

 スキナベをベッドに残したまま、ジーンは軽い食事を静かに済ませ、仕事に出かけた。

 ジーンはいつものように少しだけ回り道をして古物店に寄り道をする。しかし、そこには小さな張り紙があるだけで入り口は固く閉じられていた。張り紙には仕事でしばらく店を休みにすると書いてあった。ジーンは仕方なく、仕事先のパン屋に向かった。

 開店前でも何人かのお客さんが列を作って待っていた。ガラス戸を開け店の中に入ると、スリムが忙しそうに開店の準備をしている。

「おはよう御座います」

「おはよう、ジーン。店、開けてもいいよ」

 スリムは焼きたてのクロワッサンをカウンターに山盛りにして、そう言った。

「はい、わかりました」

 ジーンは白いいつものエプロンを付け、ガラス戸を急いで開けた。

「お待たせいたしました。今日も美味しいパンをたくさん用意させていただいております。どうぞお気に召したものをお選びください」

 そう言って客達を店内に招き入れた。

 ジーンは勘定のやり取りと、無くなりそうなパンをスリムに伝え、マスターのスリムはパンを焼きながら、焼き上がったパンを補充するのが仕事であった。

 特に人気が高かったのが、砕いた胡桃の粒を表面にあしらった固めのクロワッサンで胡桃の香ばしい香りとバターの風味が絶妙だった。スキナベもお気に入りのこのパンは、売り切ればかりであまり食べられないでいた。時々、スリムは焼かずに置いていたものを、ジーンの帰りにわざわざ焼いてくれたりした。

 いつものように店内のパンはほんの二時間ほどで売り切れた。

「マスター、最後のお客様がお帰りになりました」

「OK! じゃあ入り口閉めておいて」

「はーい」

 ガラス戸に売り切れの札をつけてカーテンをして、ガラス戸を閉めた。

「ジーン、紅茶でも飲もうか、新作を食べてほしいんだ。もうすぐ焼きあがるから」

「新作ですか? 勿論、いただきます」


 ジーンは店の奥に入っていった。

 大きなかまどのパン焼き器と木製のこれも大きなテーブルがある。スリムはパン焼き器の前で腰に手を当てて中を覗き込んでいた。

「うん、そろそろかな」

 重い金属製の扉を、グローブの様なこれも大きな手袋をして開けた。中から出てきたのは、綺麗に並んだコブシくらいの大きさの丸いパンだった。

「どう? 可愛いでしょ」

「かわいい。香りもステキ。何の香りですか?」

「一つ食べてごらんよ。紅茶入れるからね」

「ありがとう御座います。じゃ、お言葉にあまえて」

 ジーンは小さな丸いパンを真ん中から二つに割った。すると中からバターの香りに混ざって香ばしい香りがしてきた。

「はい、紅茶。良い香りでしょ。胡桃やナッツと違って控えめな感じがしないかい?」

 ジーンは、半分に割った片方を口の中に入れた。硬い表面とは違って中はしっとりとして柔らかでそして香ばしい風味が、口の中一杯に溢れた。

「美味しい。すっごく美味しい。胡桃のクロワッサンと同じかそれ以上」

 ジーンはもう片方も口の中に放りこんだ。

「これは、ひまわりとバターの固焼きパンなんだ。ひまわりの種は油分が多くて上手く焼くのに工夫したけど、これなら売れるかな」

「大丈夫、絶対売り切れ間違いなし、わたしが保証しますよ」

「じゃ、明日売れ残ったらジーンのお持ち帰りね」

「はい、喜んで」

「今日焼いたのも持って帰っていいから。スキナベくんも毎日同じじゃあ飽きるだろう?」

「ありがとうございます。うれしい。もう、一つ食べてもいいですか?」

「どうぞ、どうぞ、それ全部持って帰っていいからね」

 ジーンは先ほどと同じように真ん中から二つに割って香りを楽しんでから、ゆっくりと味わった。

「そうだ、ホームさんのお店、今日お休みでした」

「あぁ知っているよ。夕べ遅くに店に来たよ。なんでもバイオリンの修理にクレモーナに行くとか言っていたよ」

「クレモーナって、あのバイオリンで有名な?」

「そうだよ。実はあいつ元々バイオリン職人だったんだ。あいつのおじいさんってのがアントニオ・ストラディなんとかって言って、一族みんなバイオリン職人だったらしいんだ。あいつは、自分は才能がないっていつもぼやいていたけどね」

「へー、そうなんだ」

「四~五日したら、帰ってくるって言ってたよ」

 ジーンは残りの半分をゆっくりと味わいながら食べていた。

 心は知らぬ街「クレモーナ」に飛んでいるようであった。


 演奏会の準備と新作のひまわりパンのためにジーンとスキナベの二人は忙しい日が続いた。特にスキナベは演奏曲の練習と楽譜の修正に一日のほとんどの時間をついやしていた。

 演奏会まであと十日と迫った日の深夜、突然パン屋のマスタースリムがジーンとスキナベの家にやってきた。

「ジーン、居るかい? スリムです。パン屋のスリムです」

 ドアを叩く音と共にスリムの声が聞こえた。スキナベは今夜も遅くまで演奏会の準備の為に不在で、ジーンが一人で編物をしていた。

「はーい。いま、開けます」

 ジーンは急いでドアの閂の鍵を外して開けた。

「ごめんよ、こんな夜遅くに」

「とんでもないです、何かあったのですか? さ、どうぞお入りください」

 外は雨が降っている。スリムの肩や背中が少し濡れていた。

「ありがとう、お邪魔するよ。スキナベくんは?」

「今日も演奏会の準備で遅くなるみたいです。最近はずっと帰りは深夜」

 ジーンはふかふかのタオルをスリムに渡すと台所に立った。

「ジーン、お構いなく。それよりこっちに来てくれないかい?」

 ジーンは先ほどまで自分が飲んでいた紅茶と同じものをスリムに用意していた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう。本当はスキナベくんにも見てほしかったんだけど」

 そう言いながら、紅茶のカップをテーブルの隅によせて、バイオリンのケースを置いた。

「実は、ついさっきホームが家に来たんだ。このバイオリンを持ってね」

 ケースの鍵を開け、蓋を開けた。

 中から鈍い光沢の古めかしいバイオリンがでてきた。それはホームの店にあったホコリまみれの古めかしいバイオリンそのものだった。

「どうしてこれを?」

「理由は知らない。ホームがずぶ濡れになって突然やってきて、このバイオリンを一時でも早くジーンとスキナベくんに届けて欲しいと、このバイオリンを持つのに相応しいのはスキナベくんしかいないと。それだけを言うとどこかに行ってしまったんだ」

「これを持つのに相応しいのはソル?」

「詳しい事は本当に知らないんだ、ホームが普通じゃなかったから、こんな時間だけど届けにきたんだ」

「ホームさんは?」

「解らない。店の方にも行ってみたけど、帰った様子はなかった。何か大変なことがあったような感じがする」

 二人は長い間沈黙した。

 風が窓をカタカタと揺らし、雨がガラスを打った。まるで嵐のように雨と風が騒いだ。


「理由はわからない。ただ、このバイオリンで演奏会をして欲しいと言っていた。ぼくはホームのあんな顔を見たことがなかった。クレモーナで何があったのか知らないけど、ホームが最後に言った言葉がとても心に引っ掛かっているんだ」

「……」

「ホームが最後に『運命が結ばれた』 って」

「運命が結ばれた?」

「うん」

「……」

 ジーンには、言葉の意味も、何も解らなかった。分からない事が、余計に不安を押し広げた。

「お邪魔したね。それじゃ帰るよ。また明日、お休み」

「あっ、はい、おやすみなさい」

 ジーンはスリムをドアの外まで送り届けた。スリムは傘もなしに走って帰っていった。スリムが角を曲がるまで、ジーンはその後姿を見送っていた。

 風と雨が益々強くなり、ジーンは急に不安で仕方なくなり、心細くなっていた。

「ソル……」


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