第四章  追憶 第一部:「彼女がくれた……

「大家さんがね、持ってけって」

 大きな紙袋から特大のオレンジが数個出てきた。

 オレンジと同じ色のセーターを着た彼女は、スキナベの最良の理解者であり将来を約束した女性ジーン・ハンナ。

「路地の入り口になっているオレンジ?」

「そうだよ、食べる?」

「うん、食べる」

 にこやかに笑うとジーンはぺティーナイフでオレンジを切り分けた。

「大家さんがね、ソルのこと気にしていたよ」

「何て?」

 口一杯のオレンジを食べながら、スキナベは言った。

「次のコンサートは大切なコンサートなんでしょって」

「そうだけどそれで?」

「大家さんにいただいたおんぼろのバイオリンで大丈夫なのかって。気にせずに新しいのを使ってくれって」

「そんなこと? 別にあれで充分だよ。奇麗な音色がするし僕には充分さ」

「新しいのが欲しいとか思わないの?」

「まぁ、欲しくないって言えば嘘になるけどね。バイオリンって高いだろ。まだ僕には贅沢だよ」

「そうなんだ……」

 晴天の早朝、二人の部屋の中はオレンジの香りがほのかに漂っていた。

「じゃぁ、私は仕事に行くね」

「おぅ、僕は夜、男爵に、夕食に招待されているから、遅くなると思うよ」

「うんわかった。気を付けてね」

 スキナベはちょうど二週間後に女王陛下の晩餐会で記念演奏会を開くことになっていた。若手演奏家としては、稀に見る快挙と世間では騒がれていた。それも、スキナベが昨年から世界中の様々な栄誉に輝いたその成果と言える。


 ジーンは仕事先のパン屋に向かう途中で少し寄り道をした。パン屋のある広い道の一筋手前の路地を入ったところに小さな古物商があった。以前から気に入っていた店で何も買う気がないのに店の中で商品をずっと見てまわっていた。店の主人もジーンのことは「パン屋のかわいい店員さん」 として良く知っていてくれていて、時々パンも買いに来てくれていた。

 スキナベの記念コンサートが決まった翌日、たまたまこの古物店に物色に来ていたジーンはホコリまみれのバイオリンを見つけた。そのバイオリンは元々名家のお嬢さんのものだったらしいのだが、時代と共に没落し巡りめぐってこの店に流れてきたらしい。

 とても古いもので、今となってはいつの時代の何と呼ばれていたものなのかは解らないそうだけど、店主が言うには「名器」 と呼ぶに相応しいものだそうだ。

 ジーンはこのバイオリンをスキナベは奏でるのを想像していた。きっと、今以上の素晴らしい演奏を聞かせてくれる。素晴らしい音色を奏でてくれる。そう思えて仕方がなかった。

 ジーンはスキナベにプレゼントしてあげたかった。でも、ジーンの稼ぎでは到底追いつかない値段であったに違いなかった。

「おじさん、もしよもし。このバイオリン、私が欲しいって言ったらいくらくらい?」

「お嬢さん、申し訳ないんだけど、そのバイオリンは売れないんだよ。値段が付いてるのはバカらしくて買う気を起こさせないようにしているだけなんだよ」

「売れないのですか……」

「ごめんね。大切な人から預かっている様なもんなんだよ」

「そうだったんですか」

 ジーンは思い描いていたシーンが、霞がかかって消えていくのを悲しんだ。そして、肩を落としたまま仕事に向かった。


 店は大変繁盛していた。何人ものお客さんが列を作って並んでいる。

「おはよう! ジーンちゃん」

「おはよう御座います」

「ジーン、今日も買いにきたよ」

「ありがとう御座います」

「昨日のバターサンド、とても美味しかったよ」

「いらっしゃいませ!」

 ジーンは口々にお客さんと挨拶を交わすと早速エプロンを付けてレジにむかった。

「助かったよ、ジーン。お客さんが一杯でパンも焼けないんだ」

 店の主人があわててパン焼き機に向かった。

「いらっしゃいませ。何をお包みいたしましょう?」

 ジーンは先ほどのバイオリンのことが、棘のように心に引っかかったまま仕事に励んだ。


 二時間ほどでほとんどのパンは買われていった。

 店の奥から主人のスリムがエプロンを外しながら店頭へと出てきた。

「お疲れ様。ジーンが手伝ってくれるようになってからお客さんがすごく増えた。これもみんなジーンのおかげだね」

「そんなことはありません。元々美味しかったし、みんな知らなかっただけですから」

「そう言ってくれると嬉しいよ。ところでスキナベくんのコンサートはもうすぐだったよね」

「はい、あと二週間」

「もうそんなに。何かお祝いしなきゃね」

「いえ、そんな。私たちまだ結婚の約束もしてないし」

「そうなんだ。一緒に暮らしているから、てっきり結婚してるもんだとばかり。変なこと言って気を悪くしないでね」

「いえ、とんでもないです」

「そうか。早く一緒になれるといいね」

「はい、ありがとうございます」

 その時、店のドアが開いた。古物商の主人が入ってきた。

「あっ、おじさん。もうほとんどパンは売れ切れてしまって」

「いいんだよ、ジーン」

 スリムがニコニコ笑っていた。

「残り物のパンでいいよ。いくつか包んでくれるかい?」

「はい、ありがとう御座います。三つしか残っていませんが、これで宜しいですか?」

「それで充分だよ。しかし、いいお嬢さんを見つけたな、スリム」

「えっ、マスターとおじさんは知り合いなんですか?」

「知り合いって程のもんじゃないさ。幼なじみなんだよ。もともとホームは。こいつの名前ね。ここいらの子じゃなかったんだよ。九つくらいのときだったか? こいつの親父さんの仕事でこの街に来たんだよな?」

「もう何年になるんだ? 三人で本当によく遊んだもんだ」

「三人って?」

「もう一人。こいつの親父さんの仕事先のお嬢さん。セシル。おてんばでいつも傷だらけだったよな」

「もう、昔のことだよ。じゃましたな。お嬢さんありがとう」

「ありがとうって、それ俺が焼いたんだぜ」

 ニコニコ笑ってホームは店を出て行った。

「マスター。セシルって人は今どこにいらっしゃるんですか?」

「まぁ、色々事情があってね。また、機会があったら話してあげるよ。さぁ、明日の準備をしなくっちゃ」

「はい!」

 二人は店の奥に消えていった。


 ジーンの仕事が終わったのは、すっかりと陽が落ちた後だった。

 余った生地で焼いたパンを二つとサンドイッチに使う生ハムを数切れ貰って家路についた。

 表通りはまだ人通りも多くて賑わっていたが、家路の坂道はひっそりとしていた。石畳の坂道を登ると、大きなオレンジの木が暗がりの中でたたずんでいた。

「お帰りジーン」

「あ、大家さんただいま」

「遅くまで大変だね。ご苦労様」

「あ、ありがとうございます」

「これいつもいっしょだけどお食べ」

「ありがとうございます。今朝もいただきました。美味しかったです」

「そりゃ良かった。じゃあお休み」

「はい、お休みなさい」

 ジーンは深くお辞儀をして部屋へ入っていった。

 今夜は、スキナベはいないことは解っていた。でも、真っ暗な部屋に入ると淋しかった。二人肩を寄せ合い、息を潜めて生きていた頃が蘇ってくる。

 二人は孤児院でめぐり合った。

 二人とも物心つく前から孤児院で暮らしていた。スキナベが十六歳になった日。二人は孤児院を脱走して、たった二人だけで人生をリセットした。



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