第二章 「とても大切な、いらないもの」

 エムルの無邪気な元気のおかげで笑顔さえ見せるようになったスキナベ。しかし、まだ心のどこかに隠し切れない不安が見え隠れしていた。

「ソルさん、この街に来る前は何をしていたの?」

 無邪気に笑いながらエムルが言った。

「この街に来る前?」

「うん。何していたの?」

「この街に来る前……」

「忘れちゃったの?」

「……」

「お前さんが持っておったケースが、何か教えてくれるかも知れんのう」

 パイプの煙が紫色に輝いている。ゆらゆら揺れながら、漂い始めていた。

「なに? どれ?」

「そこのケースじゃよ」

 カウンターの椅子の上に置いてあるケースをロッソは顎で示した。

「へー、何が入っているんだろう?」

 スキナベはケースを目の前にして、じっと見つめている。とても壊れやすく、傷つきやすいモノでも触れるように、指先でゆっくりと撫ぜた。

「……」

「どうしたのさ」

「ロッソじいさん」

「ん?」

「しばらく、このケース預かっていていただけませんか?」

 スキナベは、ケースを愛しそうにロッソに差し出した。

「別にかまわんが」

「ねぇー、僕にもわかるように話してよー」

「また今度聞けばいいじゃろう!」

「えー、今度っていつ? いつなのさー」

「エムル! 無理を言うんじゃないぞ。スキナベさんも色々と事情があるんじゃろう」

「つまんないのー」

 スキナベはエムルの頭を撫ぜながら言った。

「ところで、この街にぼくの住むところって、どうすればいいんでしょう」

「どこかにあるよ」

「どこかって? エムル」

「どこかに必ずあんたの家があるじゃろうて」

「どこにあるのでしょうか」

「それは、ワシらにはわからんで。おもてへ出て、気まぐれに歩いてみたらええ。きっと自分の家が見つかるじゃろう」

「解りました。しばらく歩いてみます」

 スキナベはドアの鐘が鳴る音とともに店から消えていった。外は、曇り空。光は弱く、明るさも少ない。


「エムルや、これをそっちの棚に置いてくれんか?」

「はーい。でも、何で開けずに行っちゃったのかな。辛いことでも思い出したのかな」

「そうかもしれんのう。今はそっとしておいた方がいいじゃろう」

「わかった」

―― カランコロン!

 入り口の鐘が勢いよくなった。

「おはよー」

 この街で『花屋』 をやっているシィが元気よく入ってきた。

 エムルより少しだけ背が高い。ショートカットの女性である。作業着のようなオーバーオールとキャップを被っている。身なりも快活な男の子のようだ。

「あっ、シィおはよう」

「エムルおはよ。ロッソじいさんもおはよう」

「おはようシィ。紅茶でも飲んでくか?」

「うん、いつもみたいにミルクで作って」

「よしよし。そこに座って待っていてくれんか」

「シィ、新しい人が着たんだよ」

「知ってるよ。スキナベさんだろ」

「えー、もう知ってるのー」

「ノリエが言いふらしてるよ。昨日もずっとうちでその話しばっかりしていた」

「ノリエらしいのう。人恋しいのはいつものことじゃて」

「ねぇねぇ、今日はどんな花?」

 シィは小さな植木鉢をエムルに見せた。深いグリーンのガラスで出来たような小さな植木鉢。

「ほら、緑の花になるんだ。この子も本当なら帰って行けたのに、持ち主があきらめちゃ仕方がないよね」

「そうじゃのう。この街には、人以外の命も沢山おるからのう」

「ねぇ、この子はどんな子だったの?」

「よくは解らないけど、人形だったみたいだね。緑の服を着た緑の目を持っていたみたい。女の子についてきちゃったみたいだね」

「ふーん。お人形さんだったんだ」

 カウンターに置いたコブシほどの大きさの植木鉢を、両肘をついてエムルは見つめていた。植木鉢の真ん中に小さな輝く緑の芽が出ていた。

「エムル、また、花が咲くまで毎日いつものジョウロで水をあげてくれるかい」

「うん、任しといて!」

 シィは振り返りロッソに言った。

「ロッソじいさん、今日も一つか二つ持って帰るよ」

「ああ、棚のところにあるじゃろ。このままじゃ消えてただのガラス玉になってしまうばかりじゃからのう。宜しく頼むよ」

 ロッソは出来上がった紅茶をシィの前に静かに差し出した。シィは紅茶をゆっくりと確かめる様に味わっていた。

「シィ、昨日からちょっと元気のない子がいるんだよ」

「ん、どの子だい?」

 二人はカウンターを離れて奥の棚の方へ向かった。

「……。エムル、このケースは?」

「あぁそれはソルさんのだよ」

「ソルさんって?」

「スキナベさんだよ」

「そう。何が入ってるのか知ってる?」

「ううん。知らない。ソルさんが今は開けたくないみたいだったから」

「ロッソじいさん、この中の子、すっごく苦しんでるよ。毎日ずっと泣いているみたい。早く出してあげた方がいいんじゃないのかな」

「そうと解っても、その子はスキナベさんじゃないと、ダメじゃろう」

「うん、そうだね。ねぇ君、きっと出してくれるから、泣かないで待っておいで」

 シィはケースに手をかけてささやいた。ケースはほんのりとブルーに光ったようだった。


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