Last Dream

森出雲

第一章「名前のない街」


 ずっしりと重く湿った空気。そして、擦り硝子のような朝靄の中。その日、最初のバスが誰もいない停留所に止まった。バスの運転手は、羽飾りの付いた銀糸の縁取りのある帽子を一度被り直し、そして咳払いを一つすると誰にでもなしに声を出した。

「ボーダー!ボーダー このバスはここまでです。お降りお急ぎください」

 バスの中には一人の男が最後尾のシートにうずもれるように座っていた。まるで永い眠りから覚めたようにゆっくりと顔を上げると周りを見回した。

「終点です。お急ぎください」

 運転手は急がせる様に後ろを振り向かずに大きく言った。男は慌てる様子でもなく、かぶっていた山高帽子を取り、丁寧に会釈をしながら言った。

「それは申し訳ない」

 帽子を被り直した男は、膝の上に抱えていた小さなケースを大切そうに持ち直し、運転手の横にある降り口に歩いた。運転手の横まで来ると何かを思い出したように立ち止まり、そして再び帽子を取って言った。

「申し訳ないが、わたしは運賃を払うお金を持っていないんだが……」

 運転手は、しげしげと彼を見つめると小首をかしげるようにして言った。

「お客さんの胸ポケットにキップのようなものが入っているが、それはキップじゃないのかい?」

 男は胸ポケットを指で探ってみると栞ほどの大きさの不思議な模様の紙片がでてきた。男は運転手にそれを差し出して言った。

「これでいいのかい?」

「それさね。そこん所に入れてくれるかい」

 運転手は、男のすぐ前にある銀色に輝く小さな箱を顎で示した。男は示された箱に紙片を滑り込ませた。それは巻き取られるように小さな摩擦音と共にギコチナイ動きで吸い込まれ、箱は少しの間、虹色に輝くと、またもとの様に銀色に戻った。

「世話になったね」

 男はバスのタラップを一段一段確かめるように下り、バスの外へ出ると振り返って運転手にまた帽子をとって深くお辞儀をして礼をした。

「もう一度だけまた乗ることになるよ。それまでゆっくりするといいさね」

 静かに扉が閉まり、バスはまた大きな軋み音を残して動き出した。男は停留所に立ち止まったまま、バスが走り去るのを見送った。

 ずっしりと重く湿った空気の朝靄の中、まるで黒板の文字を消すようにバスは一瞬の瞬きの間にかき消えていた。


 彼が降り立ったその街は静寂に包まれていた。

 不規則に並べられた石畳の道と背の高い山百合のような外灯、何より奇妙に感じたのは、その街の建物だった。ラグビーボールほどの大きさの、宝石のような色とりどりの石を積み重ねた家や、シュークリームをつなぎ合わせて作ったような小屋、どこにも継ぎ目が見当たらない鏡のような建物など、どれもがとても不思議なものだった。建物に目を奪われているうちに、雨がシトシト降ってきた。

 彼は手のひらを広げて雨を受け止めた。するとその手にはいつのまにか傘の柄が握られていた。

「いつのまに……」

 相変わらずの朝靄の中、彼の歩く靴音と石畳の道に降り注ぐ雨音だけが彼を覆った。彼はふと以前こんなことがあった事を思い出した。

「あの時は、確か。そう、紅茶を飲んだんだ」

 雨がシトシト降る中、傘もささずに歩いていた彼は突然足を止めた。色とりどりのレンガ作りの小さな建物。窓も無く看板ひとつ掲げられていないのに、彼はそこが「喫茶店」であることを知っていた。


 彼の前にいつしか木造の扉があった。

 取手もなく、それが扉だと言うことが不思議なくらい周りに溶け込んでいた。

 彼は扉をゆっくりと押した。

 小さな軋み音をたてて彼が思う以上にゆっくりと開いていった。

「いらっしゃい。よく来なさった。さぁ、そこへ腰掛けるといい」

 初老の老人が席を薦めた。

「あの……」

 老人はカウンターの中に入り彼を見つめながら言った。

「わかっておるよ。その前にあったかい紅茶でもお飲みなさい」

 まるで彼が来ることを知っていたかのように白いカップの紅茶が用意されていた。

「あんたはレモンよりミルクがお好みじゃったのう」

 老人は小さなポットに入ったミルクをカップのそばにおいた。

「ありがとう……」

 老人はニコニコ微笑みながら彼を見ていた。

「ところで」

 ひとくち紅茶を飲んだ彼はあまりの美味しさに驚いて話すことを忘れそうになった。

「この街に来て驚いたじゃろ。見たこともない建物や感じたこともない雰囲気。突然、傘を持っていたり店があらわれたり、とな?」

 老人はカウンターの中で腰掛けながら話しを続けた。

「わしの名は、ロッソ。カイール・ロッソ。みんなはロッソじいさんと呼んでおるよ。」

 彼は自分の名前を言おうとカップを皿の上に置いた。

「わたしは」

「知っておるよ。ソロディン・スキナベさんじゃろ」

「なぜ、僕の名を?」

「みんな知っておるよ。あんたがここに来るのは『約束された真実』だからのう」

「約束された真実?」

「そうさ、約束された真実」

 スキナベは、ロッソと名乗った老人の話に戸惑を感じていた。


 ロッソはカウンターの小さなガラス製のランプを手にとった。ランプの中の小さな銀色の受け皿に細長いティースプーンでオレンジ色の液体を流し込んだ。ランプの一番上に小さなツマミがあり、ロッソはそれを何度か回してカウンターに置いた。

 受け皿のオレンジ色の液体はゆらゆらと陽炎のような煙を立ち昇らせるとふいにオレンジ色に輝きだした。最初は、受け皿に浮かぶ程度の明かりが、次第に大きくなり、ランプのガラス板を通して店全体に広がりだした。


 輝くランプの明かりで店内のほとんどが照らし出された。

 所狭しと置かれている装飾品や置物が一つ一つ、まるで生き物の様な小さな光の粒で出来ていた。光の粒の一つ一つがそれぞれの色を持ち、そしてそれぞれが輝いていた。

 輝くランプがそれぞれの置物や装飾品のゼンマイ羽根の働きをしているかの様に光の渦に共鳴していた。スキナベは見たことも無い装飾品たちを一つずつ手にとって見た。

「ここにあるモノはみんな、最愛のものを失った者たちばかりじゃ」

 スキナベは手にとったワイングラスに入っている楕円の透明な玉を摘み上げた。その玉はスキナベの手のひらで輝きを増しながら小刻みにふるえた。

「その子はもう帰るところがないんじゃよ」

 玉は白から黄色にそして深いブルーに輝きを変えた。

 スキナベはゆっくりと手を閉じた。柔らかい温かさが手の中から伝わり同時に、大きな悲しみを感じた。何故かスキナベの頬は、止めどなく流れる涙で濡れた。

 小さな玉をワイングラスに戻すと、元通りの透明な玉にもどった。

「突然、何故か悲しくなった。どうしてだろう。涙が止まらなくなった」

 スキナベはワイングラスを元の場所に戻し、見詰めながら言った。

「お前さんの持っていたケースは何のケースなんじゃ?」

「ケース?」

「ほれ、そのケースじゃ。大事そうに持っていたからのう。よっぽど大切なもんじゃろ」

 スキナベの座っていた横の椅子にそれは置いてあった。

「それは……」

「なんじゃ、覚えておらんのか」

「はい。懐かしくて大切なもののような。でも……」

「まぁ、よいよい。急がんでも時間は充分にあるじゃろうて」

 暗がりになっている店の奥のほうにある大きな箱が目に止まった。

「あれは?」

 ロッソはパイプに火をつけていた。

 紫色の煙が踊るように立ち昇っている。

「ジュークボックスじゃよ」

「音楽を聞かせてくれる、あのジュークボックスですか?」

「そうじゃよ。だた、操作したものの心に残っている曲が演奏されるがのう」

「……。僕が操作をすれば僕の心に残る曲が演奏されるのですか?」

 ゆっくりとパイプを楽しみながらロッソは頷いた。

「上にある青いボタンを押してみなさい」

 小さな光の中でひときわ大きな青い光の渦が見えるボタンがあった。

「そう、そのボタンじゃよ」

 スキナベは震える指でボタンを押した。

 小さな光で明滅していた装飾品や置物がその光をそっととじた。

 流れてきたのは、ピアノ曲だった。

 静かな旋律のそれは美しい曲だった。

「素晴らしい曲じゃのう」

 ほんの数分の間、二人は聞き入った。再び、スキナベの頬を涙が伝って落ちた。

「なぜなんだろう。こんなにも素晴らしい曲なのに」

「それは、お前さんの曲だからじゃよ」

「どこか、本当に懐かしく思う。でも、もう取り返せないような」


 カランカランと乾いた鐘の音と同時に少年が店に入ってきた。

「めずらし! お客さん?」

「スキナベさんじゃよ」

 少年はスキナベの近くに来て、見定めるように全身をながめた。

「ふーん。おじちゃんがスキナベさんなんだ」

 少年は背筋を伸ばし美しくお辞儀をした。

「僕、エムル。ロッソじいさんのお手伝いをしてるの。ヨロシクネ」

 そう言って右手を差し出した。

 スキナベはロッソじいさんをちらっと見た。パイプをにぎり直しにこやかに笑っている。

「こちらこそ、ソロディン・スキナベです。昔はソルって呼ばれていましたから、エムルもソルって呼んでください」

 いつしかスキナベの涙も消え、エムルの快活な性格に笑顔さえ見せていた。



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