青笹色

「ねえ、みどりちゃん。おはなし聞いて」

「今日はどんなお話なのかしら?」

「あのね──」


 これが、絵描きを目指すわたし、千歳緑ちとせみどりと、小学一年生の女の子、鳩羽はとばいろちゃんの、物語の始まりである。



「このあいだのたなばた会でね、かなしいことがあったの」


 いろちゃんの言う七夕会とは、町内行事のひとつである。七夕の夜に、たくさんの願いをぶら下げた竹飾りを眺めながら、食べて飲んでと、楽しむ集まりだ。わたしは準備だけ手伝って、会には参加しなかった。親子参加が基本の会で、独り身のわたしがぽつねんとしているのも、いたたまれない。どうやら、わたしがいなくなったあとで、何かが起こったようだった。


「悲しいことって、何があったの?」

「いろが書いたたんざくが、なくなったの」


 それは大事件である。自分の願いが書かれた短冊がなくなるなんて、あってはならない。さぞ、悲しい思いをしただろう。


「いろね、泣かなかったよ。えらい?」

「うん、偉いね」


 いろちゃんの頭を撫でながら、健気な彼女に、わたしが涙ぐんでしまう。楽しい思い出になるはずのものを、悲しいままにはさせたくない。会が終わって数日が経つが、なんとかしてあげたかった。わたしはそこで、ふと思い出す。


「そういえば──」


 会には参加しなかったが、準備の空き時間に、竹飾りを描いていたのだ。


「あった。ほら、いろちゃん、見て」


 そう言って、いろちゃんにスケッチブックの一枚を見せる。七夕会の夜は、よほど楽しみにしていたのか、たいていの子どもは早い時間から会場に集まっていた。色とりどりの短冊を手に、世界の中心である親御さんに、一生懸命書いた願いを見せる光景が、脳裏に焼きついている。その一番乗りが、いろちゃんだった。彼女は「ねえおかあさん、見て」と、いっぱいに背伸びをして、短冊を母親に見せた。親と子の背丈の違い、だけの話ではあるが、わたしの目にはその様子が、遠い空へ願いごとを届けようとしている、そんなふうにうつった。


「ここに一枚だけ、青い短冊があるでしょう」

「これ、いろが書いたたんざく」


 わたしたちは、一枚の短冊を一緒に指さした。それは、竹飾りの緑だけではさびしいと思っていたところに、いろちゃんが加えてくれた、別の色だった。わたしが描いたこの絵は、いろちゃんの短冊が確かにあったことの証明になる。では、なぜそれがなくなったのか。


「七夕の夜、天気はよかったわよね?」

「うん。おほしさまがよく見えたよ。たんざくが、さやさやってなってた」


 よく晴れた夜で、風はそれほど強くはなかった。短冊の結びかたがゆるく、風に飛ばされたようではなさそうだ。


「猫はいたっけ?」

「ねこ? なんで?」


 猫の習性を疑うのは、やや無理があったか。急に猫を持ち出したわたしを見て、いろちゃんはわかりやすく首を傾げた。その仕草は愛らしく、まるで子猫のようである。


「他の子の短冊も、なくなったのかな?」

「たくさんあったから、わかんない。みどりのたんざくはあったよ」


 下の名前を呼び捨てにされて、どきりとした。いろちゃんは色を指したのだろうが、わたしの名前も「緑」なのだ。話を戻そう。


(これは──いろちゃんに伝えるのは、やめたほうがいいわね)


 風でも猫でもなければ、次に浮かぶのは人である。はっきりとしないが、失われたのはいろちゃんの短冊だけ、の可能性があった。そんなことができるとすれば、人のしわざにほかならない。そう考えるのが妥当である。しかし、幼い子に、人を疑う姿なんて見せたくはなかった。


(いろちゃんもわたしも、短冊を結んだつもりでいたけれど、実は願いの書かれた短冊は、どこにもなかった──)


 いくらなんでも、それはない。忘れたくないからこそ、絵に描いたのだ。しかも、いろちゃんの見ている前で。では、他に短冊がなくなる理由はあるだろうか。短冊には、願いだけでなく「はとばいろ」と彼女の名前が書いてあった。もし拾った人がいれば、それが大人でも子どもでも、届けてくれたはずだ。


(しかたない、か)


 いろちゃんには気づかれないよう、わたしは、人を疑うことにした。


「七夕会の夜、知らない人はいたかな?」

「しらないひと? たくさんいたよ」


 それはそうか。集まる人数が多くなればなるほど、知らない人との遭遇率は上がる。わたしだって、町内に住む人たちの家族構成を、すべて知っているわけではない。わたしのようなボランティア参加者は年代がばらつく。たまたま帰省していて手伝いに来た、という人もいて、さらにその数は増える。つまり、知らない人がそれだけいた、ということだ。


「しらないひとについていっちゃいけないって、おかあさんが言ってたよ。だから、みどりちゃんが帰っちゃったあと、おかあさんがくるまで、だれにもついていかなかったの」


 彼女は、母親の言いつけをきちんと守りとおしたのだ。偉かったね、と頭を撫でてやる。つやのある細い髪の感触が、とても気持ちいい。いろちゃんは、わたしの手を小さな両手で握り、見上げてこう続けた。


「それからおかあさんがきて、『みんなのいるところにあつまっていようね』って、つれていってくれたの」


 町内の人が多く集まっていたとはいえ、子どもがひとりでいるのは危ない。夜ともなれば、なおさらだ。いろちゃんのお母さんは、さりげなく、我が子を安全なところへ誘導したようである。

 いろちゃんのお母さんとは、面識があった。いろちゃんに手を引かれお家へ伺ったとき、娘と仲良くする成人女性とは何者か、と、眼光鋭くにらまれたのを覚えている。それから何度かお会いして話すうちに、すっかり仲良しになった。七夕会の日も、準備を手伝ったわたしを労い、ジュースとアイスクリームをおごってくれた。会場に用意されたものではなく、わざわざ近くのコンビニエンスストアまで、わたしを連れて行ってくれたのだ。気心の知れた間柄である。わたしは、一番高いやつを遠慮なく選んだ。


(そういえば──)


 気になったことが、ふたつ思い浮かんだ。


「ねえ、いろちゃん。お母さんは、一緒にさがしてくれた? それから、短冊には何て書いたの?」


 ひとつめは、いろちゃんのお母さんが、娘の憂き目に黙っていたのか、である。竹を割ったような性格の彼女が、怒りに燃え、犯人をさがさなかったとは思えない。相手が男性でも、襟首を掴んですごみそうなパワフルな女性なのだ。ふたつめは、願いごとである。たとえそこに何が書かれていようと、小さな女の子の願いを奪っていい理由にはならないのだけれど。わたしは、そのどちらか、もしくは両方にがあるような気がした。


「おかあさんはね、いっしょにさがしてくれたよ」

「お母さん、怒ってなかった?」

「いろはわるいことしてないのに、どうして? おかあさんは、いろと手をつないで、にこにこしてたよ」


 小さい子どもに、自分の思いを理解してもらうのは難しい。短冊をとったであろう犯人への怒りでなく、短冊をなくしてしまったいろちゃんを叱る、と伝わったようだ。彼女の母親は、娘がひどい目に遭ったというのに、怒ってはいなかったという。場の空気を考えてのことだろうか。そういった配慮が、できる人ではある。


「そうね。いろちゃんは、何も悪くないわ。お母さんが一緒にさがしてくれて、よかったわね。じゃあ、もうひとつ。短冊に書いた願いごとは、なぁに?」

「いろのねがいごと?」


 いろちゃんはきょとんとして、特別なものは何もないのだ、と教えてくれた。


「『おとうさんが、はやく帰ってきますように』って書いたよ」

(ああ、そうか。両方だったのね──)


 わたしの中で、すとんと何かが落ちた。

 いろちゃんのお家は、今は母娘の二人暮らしである。父親は、病気のため長期療養中で、なかなか会えないのだと聞いていた。いろちゃんは「さびしくないよ」と言っていたが、本当はお父さんに会いたくてしかたがないのを、わたしは知っている。「おかあさんには、ないしょにしてね」と、入院費用を自分が払うのだと、お小遣いをためているのを教えてくれたり、お見舞いに行く日を指折り数え、「おとうさん、よろこぶかな」と、父をはげます手紙を見せてくれたりもした。もちろん、そのどちらも彼女の母親には筒抜けで、「いい子に育てたわたし、すごいでしょう」と自慢されたことがある。同じ女性として、尊敬する。


(短冊は、やっぱり人がとったのね)


 わたしがたどり着いたを、きっと、いろちゃんが証明してくれるに違いない。もしも答えが合っていたのなら、わたしもうれしい。七夕は、七月七日でなくてもよいのではないか。そうであれば、「わたしの答えが合っていますように」と、今この瞬間の願いを、短冊に書いただろうに。


「ねえ、いろちゃん。この次、お父さんに会う日は、いつ?」

「おかあさんがね、今日のゆうがたって言ってたよ」


 いろちゃんは、あと数時間もしたら、短冊がなくなった理由を知ることになるだろう。その瞬間を思い浮かべると、他人事ながら、うれしくてうれしくてたまらなくなる。そんな様子を不思議そうに見るいろちゃんを、わたしはぎゅっと抱きしめた。



 おしまい

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