深山八重紫
「ねえ、みどりちゃん。おはなし聞いて」
「今日はどんなお話なのかしら?」
「あのね──」
これが、絵描きを目指すわたし、
「『いろ』って、おばあちゃんみたいで、ヘンな名前」
いろちゃんの話では、どうやら、学校で男子にいじめられたらしい。「名前がヘンだ」というのだ。
「いいじゃない。いつか、おばあちゃんになるんだから」
そう言い返したいろちゃんは、強気な女の子である。
「いろのなまえ、ヘンじゃないよね?」
「すてきな名前だと思うわ」
「でしょう。それなのに、そうじくんたら、ひどいのよ」
いろちゃんは、品のよい青色のランドセルをおろして、わたしのとなりにちょこんと座った。女子といえば、わたしの世代であれば赤色の一択である。そこに疑問や不満を持ったことは一度もない。遠目に赤いランドセルを見つけると、女の子がいる、と不思議な安心感があったものだ。しかし、今は色とりどりで、女子でも黒色を選ぶ子もいる。そのどちらでもない彼女のランドセルを、わたしは素直にほめた。青色を選んだのは、クラスでいろちゃんただひとりらしく、誇らしげにしている。
いじめた主は「そうじくん」という、同級生の男子だそうだ。なんだか、お掃除が好きそうな名前である。お掃除大好きそうじ君、とでも言ってやれば、すっきりしそうなものだが、やり返さなかったいろちゃんは偉い。
「そうじ君は、いつもそんなふうに言ってくるの?」
「ううん。このあいだ、きゅうにばかにされたの」
突然いじめ始めた、と。
「ひょっとして、いろちゃんのことが、好きなんじゃない?」
気持ちとは裏腹に、好きな子にちょっかいを出してしまうのは、よくある話だ。その比率は、女子に比べると男子のほうが高いように思う。女子は恋愛感情を大切に育むのだが、男子は「好き」をコントロールしきれない。直球が途中で大きく変化してしまい、ちょっかいという暴投になるのだ。小学一年生ともなれば、感情表現はまだ未成熟だろう。
「ちがうよ」
いろちゃんは、きっぱり否定する。子どものストレートな物言いが
「そうじくんは、さくらちゃんのことが好きなんだよ。けっこんをぜんていとしたおつきあいをしてるんだって。ぜんていってなに?」
いまどきの小学生の男女仲は、ずいぶんと進んでいるようだ。すでに、結婚の約束をかわしているとは。わたしは、男性とそんなお付き合いをしたことがない。「前提というのはね」と、わたしはふたりの関係を説明した。すると、いろちゃんは「おとこはうきわするって、おかあさんが言ってた。いけないのよね」と母親の言葉を持ち出してくる。いつから夏の話になったのかしら? と思ったが、どうやら「浮気」が「浮き輪」になったようだった。男女仲のきわどい言葉を知っているとは、小学一年生といえど、もう立派な女なのである。話を戻そう。
好きな女子をいじめてしまう、はハズレのようだった。正解にたどり着くには、もう少し情報が必要だ。
「急にいじめてきたのよね?」
「うん」
「そうじ君は、他の子もいじめてるの?」
「ううん。いろだけだよ」
「いじめられた心当たり──もしかしたらなんだけれど、いろちゃんが、そうじ君を怒らせるようなこと、してないかな?」
「いろは、わるいことしてないよ」
そうじ君は、いじめっ子ではないようだ。そして、いろちゃんには、思い当たるふしがない。では、なぜ急にいじめ始めたのだろうか。名前を馬鹿にするなんて。もう少し聞いてみよう。
「そうじ君に、何か変わったことはあったかしら?」
身のまわりの変化に敏感な子はいる。どう対処していいのかわからず、それが他人を傷つけるほうへ向かうこともあるのだ。
「かわったことって?」
「そうねえ。たとえば、さくらちゃんとケンカした、とか、先生に叱られた、とか。あと、風邪をひいちゃった、とか」
「ううん。さくらちゃんとはなかよしだよ。よく手をつないでるの。そうじくんは、さんすうがとくいだから、先生によくほめられるよ。かけっこもはやいの」
恋仲のさくらちゃんとは順調で、算数が得意、そのうえ運動神経もいい。将来有望ではないか。わたしもそんな出会いをしてみたいものだ。と、さくらちゃんに軽く嫉妬していると、いろちゃんが何やら思い出したようである。
「そういえば、そうじくん、このあいだがっこうをお休みしたの。いつもげんきなのに、どうしたんだろうって、さくらちゃんがしんぱいしてたよ」
「それって、いつごろ?」
「うーん、いつだったかな……。お休みしたあとだよ、いろのこといじめはじめたの」
そう言っていろちゃんは、指を折って数え始める。様子から察するに、そうじ君が学校を休んだのは、それほど前ではないようだった。いつも元気な子が、特に変わったこともないのに学校を休むとなると、理由は何だろうか。
「ねえ、いろちゃん。そうじ君のお名前を教えてくれる?」
「そうじくんはそうじくんだよ」
聞きかたがよくなかった。
「いろちゃんのお名前は、はとばいろちゃん、よね? そうじ君は、何そうじ君なのかな?」
「そうじくんはね、こんぱるそうじくんっていうの」
苗字は「こんぱる」らしい。その名前で、ぴんときた。庭先に、それは見事な
あれはいつだったか。毎度、同じ場所で絵を描いているのもつまらないもので、その日は気分転換にと、行ったことのない道をぶらぶらしてみた。そのとき、きれいな青い色をした紫陽花が目に飛び込んできて、絵心が騒いだ。夢中になって描いていると、品のよいおばあさんが、「まあまあ、上手ねえ。お花も幸せだわ」と話しかけてきた。そのおばあさんは、自分は春の名前を持つけれど、夏の花である紫陽花が好きだ、と穏やかに微笑んだのだ。表札には「金春」とあった。
「みどりちゃん、どうかしたの?」
「ああ、ごめんなさい。ちょっと思い出したことがあって」
「ふぅん」
金春という苗字は、この町ではとんと聞かない。過去に新聞配達のアルバイトをしたおかげか、わたしは町の住人の名前を──すべてとは言わないまでも──ほとんど知っている。おそらくそうじ君は、その家の子であろう。あんなに優しそうなおばあさんと一緒に暮らしていて、はたして、人をいじめるような悪い子に育つものだろうか。いろちゃんに聞いてみても、そうじ君はそんな子ではなさそうだ。となると、唐突にいろちゃんだけを、しかも「名前がヘンだ」といじめる理由は何だろう。
(そういえば、金春のおばあさんと最後に会ったのは、いつだったかしら)
人を見かけなくなる。これは何も、相手にすべての理由があるわけではない。ほんのちょっと、おばあさんとわたしの生活サイクルがずれるだけで、あっけなく会えなくなるものだ。しかし、このときわたしがまっさきに連想したのは、あまりよいことではなかった。風邪をひいただの、足を悪くしただの、そういった類である。もっとも、習いごとを始めたとか、旅を楽しんでいるとか、明るい話題の可能性ももちろんあったのだが。
「そろそろ帰るね。おそくなると、おかあさんにしかられちゃう」
いろちゃんがそう言って、元気に立ち上がる。ランドセルを背負うのに、少し手間取る姿が可愛らしい。
「あ、そうだ。いろちゃん」
わたしは、ふと思い浮かんだ答えから、いろちゃんにこう伝えた。
「そうじ君ね、もう少ししたら、いろちゃんのことをいじめなくなると思うわ。だから、いろちゃんは、そうじ君を嫌わないであげてね」
「いろ、おともだちがたくさんほしいの。だから、きらいになんてならないよ」
いろちゃんの笑顔は、きらきらと輝いていた。きっと、これからもたくさんのお友達を作れるだろう。それこそ、百人なんて、あっという間に。
「車に気をつけてね。ばいばい」
「みどりちゃん、ばいばい。またね」
いろちゃんは、わたしが見えなくなるまで、何度も何度も振り返り、手を振ってくれた。いろちゃんの顔と青いランドセルが交互にうつる。ランドセルの色は、空とは違う青い色をしていて、わたしの想像を裏づけているような気がした。帰宅後、わたしは数日ぶんの新聞紙を広げて、部屋を散らかす。
(そうか。そうじ君は、きっとあの色を見て、思い出しちゃったのね)
そこに、答えにつながる名前を見つけた。わたしは、答えにたどり着いたうれしさよりも、どうせならはずれていればよかったのに、と悲しみがまさり、複雑な気持ちになる。答えをいろちゃんに伝える必要はない。わたしはのそのそと、白と黒ばかりが目にうつるそれを片づけた。紙面がもっとカラフルだったら、少しは気が紛れただろうに。新聞紙をまとめ終え立ち上がった拍子に、ぱさりと一枚、広告が落ちた。拾い上げると、それはフラワーショップの広告だった。わたしは色とりどりの花をしばらく楽しみ、そっと新聞紙の間に挟んだ。
おしまい
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます