2021夏 勝利の女神

 中体連、チームは順調にコマを進め、潤は県大会の準々決勝からスタメンに復帰した。


 午後、いよいよ決勝戦に挑む。心を落ち着かせる為、体育館の周りを散歩する。

 涼を求めて木陰に座ると、体育館から声援が漏れ聞こえる。熱中症対策からか外を走る学校は少ないが、彼女はこのむせぶような暑さが堪らなく好きである。蝉の声、そよぐ風、それから控え室の汗の匂い。


 床に座り、足首のテーピングを確かめる。足を開いて、ゆっくりとストレッチする。緊張で手が震える。

「潤、面会」

 キャプテンの咲が入口から顔を出した。

「誰?」

「ジローさん」


 控え室から出ると、彼は茶褐色の肌に汗を浮かべて、2Lのスポーツドリンクを差し出した。潤は受け取ろうとしたが手が震え、拳を握りこんだ。

「どうした?」

「わからない。武者震いかなぁ」

「大丈夫?」

「ジロー、思いっきり握手してくれる?」

 彼はペットボトルを床に置くと、潤の両手を強く握りしめた。

「こう?」

「もっと強く」

 両手が握力計のように潰される。潤は深く呼吸した。


「ありがとう。きっともう大丈夫」

 ペットボトルを受け取って踵を返すとジローが呼んだ。

「潤!」

 振り返って彼を見る。

「今日の君はニケに見えるよ」

「ニケ?」

「勝利の女神だ」

「何それ」

 プッと吹き出した。教科書で見た、サモトラケのニケ像を思い出す。首がないのに表情があるように感じた。いつかパリに行けたなら、本物を見てみたい。

「あれ……」

 両手を見ると、不思議ともう震えは止まっていた。


     *


 大歓声の中、神経が研ぎ澄まされる。

 終盤、2点差の攻防で迎えた残り30秒でのタイムアウト。踵を床に落として右足首を確認する。

「ファールを貰いながら、ゴール下のシュートを確実に決めてフリースローで逆転するぞ!」

 深婆が渇を入れる。選手達はドリンクをがぶ飲みする。試合再開のホイッスルが鳴る。



 ディフェンスはぴったりと張り付いていて、深婆の描いたシナリオ通りにパスが通らない。

 業を煮やした咲がドリブルで突っ込んでゴール下をくぐり抜け、ふわっと飛び上がり背面シュートした。

「入って……」

 ボールはリングをぐるぐると回って外へ弾かれ、コーナーへ転がる。もう時間がない。


 潤は無我夢中でこぼれ球を拾った。振り向きざま、リングを狙う。ディフェンスが手を伸ばしてシュートコースを塞ぐ。駄目だ――誰もが諦めかけたその時、


 潤は、あのシュートを放った。


 その瞬間、会場の声援が聞こえなくなり、自分のシューズのゴムが床を擦るキュッという音だけが、耳に届いた。

 まるで自分は水ロケットの発射台で、両膝のバネは圧縮された空気のような、そんな感覚がした。

 ボールは高く弧を描いて、シュッとリングに落ちた。石を落とした池の水しぶきのように、ゴールネットが美しく跳ね上がった。


「入った……」


 部員達は、深婆の涙を初めて見た。応援席を見ると、ジローが笑っていた。



 





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