第36話 地下牢を脱出する

 薄暗い地下牢の中にあって、その白銀の毛並みは自ら輝いているようであった。


 美しく、巨大な狼。

 人ならば数名は楽に収容できるその牢屋も、狼の巨体では寝そべるだけで精一杯の広さしかない。


 その威容は囚われてなお雄々しく、山林で出会うことがあれば、崇めずにはいられない立派な狼だった。


「グルル……」


 狼は鼻筋に皺を寄せ、弱った自身の体に苛立っていた。


 劣悪な環境に長く囚われているため、毛皮の美しさには陰りが見えている。

 食事もろくに与えられていないのか、肋骨は浮き出て、ぬぐうことも出来ないヤニが眼を濁らせていた。


 だが、たとえヤニに塞がれようと、その眼はまだ死んでいなかった。

 闇の向こうに立つ、自身をこんな目に遭わせた者を、狼は睨みつけている。


「……まだそんな眼をしているのですか? いい加減に諦めて、私の従僕となって欲しいのですけれど」


 闇の中から相手の姿が浮かび上がる。


「ねぇ、貴方も自分の使命は分かっているでしょう? 聖女には神狼が付き従うもの。初代様に仕えたように、私にも仕えてくださらないと、信者に示しが付かないのです」


 白い修道服に身を包んだシスターだ。

 純潔の白をまとっていながら、どこか扇情的で過分な色気を漂わせる女だった。


「神霊の森に潜んでいたあなたがわざわざ人里に下りてきたのも、聖女に仕えるためなのでしょう? どうして頑なに私を拒絶するのです?」


『このようにわれを拘束しておきながら、ぬけぬけと……!』


 グルルとうなり声を上げながら、神狼は人語で修道女を非難した。


「それはあなたが反抗的だからです。この聖女マリアンヌの従僕になると誓えばすぐに解放いたしますのに」


 マリアンヌと名乗った修道女は、格子の隙間から片足を差し入れる。


 檻の中に囚われた神狼は、その瑞々しい足に噛みつくことも出来ず、顔を踏みつけにされた。


「ねぇ、せめて条件を言って下さらない? 私は聖女、億人に達する教会信徒の頂点。あなたが望むものを全てそろえてみせますわよ? あなたは何を差し上げれば私に従って下さるのですか?」


『望むものなど何もない! 我が従うのは聖女のみ! 貴様の思い通りにはならない!』


 吠え猛った顔面を、再度踏みつけにされ、神狼は苦しげにうめいた。


 神狼の四肢は鎖に繋がれているが、本当の意味で拘束しているのは、足場に刻まれた魔法陣だろう。


 抵抗しようとする度に発光し、神狼の力を封じている。


「聖女にしか従わない? なおさら言っている意味が分かりません。私の職業はまごうことなき聖女。他ならぬ女神によって定められているのですよ。あなたは神の決定に逆らうというのですか?」


『違う! 聖女とは職業などで測れるものではない! その行い、その軌跡を以て聖女と讃えられるのだ!』


 聖女の足をはねのけ、神狼は吠えた。


『貴様のどこが聖女だ! 世界に悪意をばらまき、人々を苦しめるばかりではないか! 淫欲にまみれたこの毒婦め! 絶対に貴様などには従わん!』


 毒婦と罵られ、マリアンヌの額に筋が浮かんだ。


 笑顔を浮かべたまま、大きく足を持ち上げる。


「本当に! 調教の! しがいが! あること!」


 檻の隙間から、マリアンヌは何度も何度も神狼を踏みつけた。

 嗜虐の趣味でもあるのか、恍惚と頬を染めている。

 大きく開いたスリットから太ももがのぞき、それがなおさら聖女らしくない。


『ぐ、うぅ……』


 痛めつけられた神狼を、マリアンヌはニヤニヤと見下す。


「その頑固な石頭が、早めに治療できることを女神様に祈っておきますね」


 マリアンヌが檻に背を向けると、屈強な僧兵が両隣から現れ、彼女を護衛する


 立ち去っていく聖女たちを、神狼は力なく見送った。


『聖女さま……。あなたは今どこに……』


 思い出すのは十五年前。

 役目を終えた神狼は、霊樹のうろに籠もり、眠り続けるだけの日々を送っていた。

 平穏だが退屈で、どこか寂しい毎日だった。あるべき半身がそばにない切なさだけが胸の内にあり続けた。


 そんな神狼を永い眠りから目覚めさせたのは、とある匂いだった。

 

 聖女の誕生を感じた。

 始まりの聖女と同じ懐かしい香り。


 その匂いを嗅いだとき、半ば植物と化していた精神が動き出した。


 人の手の届かぬ神霊の森から出て、人の世を彷徨い続けたのは彼女を探すためだ。


 しかし、15年の時が経っても姿を見ることも叶わず、彷徨ううちにこんなところで偽の聖女に囚われている。


『会いたい……。我はあなたに会いたいのです……』


 悲しみに暮れる神狼は、不意に鼻をひくつかせた。

 その香りを嗅ぎ取ったのは無意識だった。


 地下牢と繋がる通気口から、ほんのわずかに漂ってくる。

 神狼の嗅覚でなければ絶対に捉えられない、遠い距離を隔てたかすかな香りだ。


 その香りには覚えがあった。

 千年以上前に、そして15年前に嗅いだ香りだ。


『懐かしくも清浄なるこの香りは……! 間違いない……!』


 香りは少しずつ近づいている。


『聖女様がやってこられる……! まやかしではない真の聖女様が……!』


 迎えに行かねばならない。


 神狼は強く決心した。


 だが、神狼を束縛する魔法陣の力は強力で、弱った今の力では封印を解くことは出来そうもない。


『これは一か八かだ……。失敗すれば魂は崩壊し、成功しても我は力の大部分を失うだろう。だが、聖女さまがここに向かっておられるのならば、我がお守りせねば……。真の聖女の存在を知れば、あの毒婦が黙っているはずがない……!』


 神狼は残った力の全てを振り絞り、この封印から抜け出す一手を実行した。


 白銀の毛並みは月光のようにまばゆく輝き、さらにその光を強めていく。

 もはや神狼の輪郭すら定かではなくなり、地下牢から漏れかねない程の光が収まった頃、牢屋の外には白い毛玉が転がっていた。


『上手くいったようだ……』


 毛玉がふにゃりと形を変える。

 短い手足で懸命に立った毛玉には、神狼をそのまま幼くしたような顔が付いていた。


『分け身故に力はないが、聖女さまに危機をお伝えするならば充分だ』


 抜け殻となった本体は、牢に繋がれたままだ。

 傍目には眠っているようにしか見えないだろう。あの偽聖女の目をしばらくごまかすことは可能だろう。


『待っていてください、聖女さま……! あなたの唯一無二の従僕たる神狼フェンリルがすぐに馳せ参じます……!』


 白い毛玉はてふてふと足を踏みならし、地下牢の階段を駆け上がっていった。

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