女郎花の咲く庭で。【ホラー要素あり】
「晴明さま」
「これはこれは、検非違使の伴永さま」
晴明は柔らかな笑みを浮かべて、目線で挨拶をした。
伴永は会釈をすると、晴明に歩み寄った。
「晴明さまにご相談したいことがございます」
晴明は伴永が相談に来ることを知っていたとでもいうように、微笑んだ。
「ええ。明日、お伺いいたしましょう」
「……お待ちしております」
深く頭を下げて、伴永はその場を辞した。
本心は、このまま一緒にお連れして、今すぐにでも問題を解決して頂きたい。
伴永が空を仰ぐと、綺麗な円の月が浮かんでいた。
陰陽寮は、暦を作り、星を観て吉凶を占うのが主な仕事だ。
しかし、そのなかで人とは違う才を持った者が居る。
安倍晴明はその中でも群を抜いて力を持っていて、鬼を使役して自在に操ることが出来るという。
伴永にとって、彼は最後の砦だった。
伴永が寝所に入ると、影が揺らめいて壁をぐるぐると駆けた。
騒がしい足音と共にいくつもの獣の鳴き声がする。
伴永は刀を抱き寄せてみるものの、震えて歯が鳴る。
勘弁してくれ。
毎夜、起こる現象に、心も体もすっかり疲弊していた。
暦が秋に入って間もない頃だったろうか。
最初は子猫の鳴き声が聞こえただけだった。
それが夜毎、一匹一匹と声が増えて、声はどんどん物々しくなり、足音が響き渡るようになった。
名のある神社や仏閣でお払いをしてもらったけれど、今のところ効果は見られない。
伴永は布団を引き上げて、耳を覆った。
早く。早く明けよ。
そう、強く願って、目を閉じた。
目を覚ますと、誰かが庇を開けて月を仰いでいた。
背格好からして、家人ではないようだ。
「伴永さま」
振り返った男は、月明かりを浴びて幽鬼のように青白く浮かび上がっている。
足元には黄色の花。
「もしや、晴明さま……?」
「ええ。随分寝苦しそうだったので、勝手に夢にお邪魔させていただきました」
夢にしては、随分明瞭で感覚も現実的だ。
花の中から、晴明は猫を抱き上げて、その首を撫でてやる。
猫は心地よいのか、首を上げて催促している。
「伴永さまは、身に覚えがあるのではないですか」
「……身に覚え、ですか」
風が、花を煽っていく。
どこにでも咲いている花だ。
香りはよくないけれど、光をいっぱい吸い込んだような小花が密集しているのが愛らしい。
「まだ、夜が明けるまで時間があります。もう少しお休みになられるとよいでしょう」
晴明の穏やかな声が眠りへと誘う。
伴永が次に目を覚ますと、すでに陽は頂点に達していた。
半身を起こしたところで、家人が慌しく駆け込んできた。
「お客様でございます」
「客……?」
まだ、覚醒していないせいで、思考が纏まらない。
家人の慌しい足跡と声が聞こえてきて、夢と同じ影の男がそこに立った。
「晴明さま」
「よくお休みになられたようですね。顔色も良い」
「不思議な夢を見ました。貴方が庭に居て……この庭いっぱいに女郎花が咲いていて……」
晴明は何も言わず、薄く笑みを湛えていた。
夢、だったのであろうか。
それとも、この方の見せた幻であったか。
「伴永さまの悩みは、女郎花でございましたか」
晴明の澄んだ目には、もう全て見通されているのだろう。
伴永は頷くと、語り始めた。
まだ立っていると汗ばむような時期です。
前日の雨が嘘の様に晴れて、天気に恵まれた一日でした。
とある方のお邸の警備に当たっていると、目の前で牛車の車輪が轍に嵌って立ち往生していて、助けたことがあります。
男五人で牛車を押しますと、大きく揺れて、御簾から中に乗っていらっしゃった方と目が合いました。
どこのお方かは存じませんでしたが、車やお付きの者からして、身分のお高い方であるのは間違いなさそうでした。
彼女はまだ、柔らかな頬に幼さを残していて、不安そうに黒猫を抱いてこちらを見上げておりました。
なんと、愛らしい姫君だろうと、心が震えたのを今でも憶えています。
けれど、私は見なかったことにしようと、何もなかったかのように振る舞い、轍から抜け出た牛車を見送りました。
それから数日後。
そのお方から、お礼の手紙が届きました。
女郎花を添えられた文。
私は、返事を書かず、紙を千々に引き千切り、女郎花と共にこの庭に捨てました。
「……女郎花の君は、そのあと右大臣さまのところへ」
伴永の噛み締めている唇が切れて、血が顎を伝っていく。
いざ言葉にすると、後悔は胸からとめどなく溢れてくる。
「でも、私は検非違使で、彼女に文を頂けるだけでも恐れ多きことなのです」
身分の違う恋だ。
彼女は右大臣によって、何不自由なく、きっと幸せに暮らすことだろう。
「人とは厄介な生き物ですね」
晴明はそう微笑むと、庭へ下りてぐるりと一周した。
そして、両手に息を吹きかけると、そこには一輪の女郎花と文があった。
「この呪いを解けるのは、貴方様御自身です」
月明かりの下、伴永は文を読み返していた。
晴明が不思議な術によって出した文は、確かにあの日伴永が破り捨てたものだった。
文には、彼女のいじらしい想いが詰まっていて、胸が痛くなる。
――貴方が助けてくれたあの路で、待っています。
添えられた女郎花は、その路傍に咲いていたのだろうか。
少しだけ欠けた月を見上げていると、いつの間にか隣に黒猫が腰を下ろしていた。
「どうか、幸せに」
猫は月に向かって吼えるように一声鳴くと、夜の闇へと消えていった。
その夜から、怪異はぱたりとなくなった。
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