始まりは映画館で。
有数な財閥の子孫である狩野 寿彦は、次男坊であることをいいことに仕事もせずに遊び回っていた。
酒を飲むのも、たばこを吸うのも大好きで、やりすぎて病院に運び込まれたことも何度もあるし、博打にボロ負けして有り金全部磨ってしまったこともある。
女中からは陰で『馬鹿息子』と囁かれていたけれど、寿彦は聞き流すことにしていた。
こんな風に自堕落な生活をしているのには理由がある。
寿彦は何かに熱中したことがない。勉強も運動も人並み以上に出来たし、容姿もそこそこ良くて、背景にある実家は金持ち。
人々は甘えた声で絡み付こうと擦り寄ってくる。
寿彦にとって、それが人の本性で、全てのように思えた。
お陰で誰かと仕事を出来た試しがないし、就職したところで、詰まらなくて辞めてしまう。
最近、飲み屋の近くに純喫茶が出来たと聞いて、寿彦は居ても立ってもいられずにその店へと駆けた。
外は普通のレンガ造りでパッとしない。
入る気が殺げてしまい、帰ろうと踵を返そうとしたところで、木造のドアから女性が顔を覗かせた。
頬の辺りで切り揃えられた艶やかな黒髪。ツンと覗く鼻が可愛らしい。
女給の、着物の上に着けた真白なエプロンと、箒を掴む着物の袖から覗く柔らかそうな手。
寿彦は花の香に誘われた蝶のように、ふらふらと店へと近付く。
「ねえ、キミ」
振り向いた女性は――思っていたよりも幾分幼かった。
くりくりとした丸い目。頬に散るそばかす。
「はい」
ぷっくりとした口から漏れ出る鈴の音ようなころころした声。
――なぁんだ、ガキか。
肩を下ろして、あからさまにがっかりする寿彦に、少女は頬を膨らませた。
「なんて失礼なお客かしら」
「あぁん?」
「その肌蹴た服もだらしない。表を歩くならしっかりなさってくださいませ」
「誰に向かって言ってやがる。俺は狩野家の人間だぞ」
彼女は一瞬だけ、目を見開いたものの、すぐに怒気を孕んだ表情へ戻した。
「それがなんですか」
「は?」
つっけんどんに返されて、寿彦は固まった。
その間に彼女は掃除を終えて、店内へと入っていってしまった。
――感じの悪ィ女だな。
足を踏み鳴らすようにして、寿彦は斜向かいの飲み屋へと向かった。
それから、数日。
飲み屋の二階に転がり込んで、斜向かいにあるあの喫茶店の様子を窺っていた。
店は中々の繁盛をしていて、人気のメニューはピリッと辛いサンドウィッチ。
あの小娘は、香奈という名前で店主の娘らしい。
掃除と給仕だけではなく、厨房に立って料理もするらしい。
開店から閉店まで、濃やかな気遣いで接客をしていることで、男の常連客が増えているらしい。
寿彦はするめいかを齧りながら、苛立たしげに舌打ちをする。
「ちょいと、いつまで居座るつもりだい」
「そんなこと言わないでよ、姐さん。綺麗な顔が台無しだ」
「どの口が言ってんだ。あんた、ずっとあの子ばかり見てるじゃないか」
飲み屋の女主人が、呆れて溜息を吐いた。
「あんな小娘なんか見ていない」
「素直じゃないねぇ」
「フン」
顔を背けた先、今日も彼女は店先を掃除している。
「気になるなら、声でもかけておいでよ。あたしは寝るから」
手でひらひらと出て行くことを催促されて、渋々寿彦は腰を上げた。
店の前。
窓から覗き込んで、店内の様子を窺う。
席はほぼ埋まっていて、噂通り男性客も多い。
思わず、窓枠に乗せていた手に力が入る。
「なに、していらっしゃるんですか?」
振り向くと、見知らぬ顔のお巡りがこちらを見ていた。
知り合いだったら、挨拶をして済むものを……。
めんどくさい事態に、顔を引きつらせていると、裾を引かれた。
「お客様、ご気分は落ち着かれましたか?」
くりくりとした丸い目。頬に散るそばかす。
ぷっくりとした口から漏れ出る鈴の音ようなころころした声。
給仕の途中なのか、トレーを持った香奈がそこに居た。
まるで一年も会っていなかったかのように、心が満たされて、胸が高鳴る。
「ほら、戻りますよ。お騒がせしてすみません、お巡りさん」
腕を引かれるまま、寿彦は店の中へと入った。
「もう、入ってきたらよかったじゃないですか。三十分もああしていたら、誰だって変に思いますよ」
「変とはなんだ」
「変じゃないですか。なにか召し上がっていかれます?」
「……じゃあ、珈琲とサンドウィッチ」
メニューも見ずに答えた寿彦に香奈は不思議そうに首を傾げた。
「そうですか。お席にどうぞ」
カウンターに腰を下ろして、寿彦は香奈の動きをじっと見詰める。
てきぱきと、無駄のない動き。
小柄な彼女が、厨房と客席の間を忙しなくうろうろしている様子が可愛らしい。
こんな風に誰かに興味を持ったことなんてなかった。
人なんて、放っておいても寄ってくる。
「……なあ」
「はい」
カウンター越しに見詰めあう。
「結婚しないか」
「嫌です」
「俺は」
「知ってます。御曹司様でしょ」
「じゃあ、なんで」
香奈のしかめっ面に、寿彦も頬を膨らませた。
「フラフラしているような人は嫌いです」
「じゃあ、仕事をする」
「タバコとお酒をする人は嫌い」
「辞める」
「……一緒に映画を観れない人ような野蛮な人は嫌い」
「わかった。俺、映画館を造ってやるよ」
香奈が丸い目をさらに丸くする。
「え? そんなこと言っていない」
そんな香奈の声が聞こえているのかいないのか、出された珈琲とサンドウィッチを平らげるなり、外へと飛び出して行った。
「待ってろよ、香奈!」
満面の笑顔でそう言われてしまうと、最早何もいえない。
香奈は笑って見送った。
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