シナスタジア



 雨はガーベラ。日の光はラの音。

 ショパンの『別れの曲』はイエロー。

 パンの香りはレッド。

 わたしの名前はグリーン。

 彼の名前は――。 


「ミコト」

 顔を上げると、声を掛けてくれた人物の、元々色素の薄い髪が陽に透けて、赤く見える。

 目が慣れて、彼の笑顔がくっきりと視界に映った。

「コウ」

「また、こんなところで本を読んでたの? 暑くない?」

 庭の金木犀の木の下。わたしはレジャーシートを広げて、そこで本を読むのが好きだった。

 金木犀はわたしの一番好きな花だ。

 香りも、黄金色の花も、全て好きだと思っている。

「平気」

 降ってきたのであろう髪に付いた小さな花を、彼は優しく掬い上げた。

 それからコウは隣に寝そべると、今度はわたしの顔を見上げた。

「その本、どう?」

「面白いわ」

「そうか」

 コウは本を読むのが苦手だ。

 わたしにはただの白と黒の文字の羅列が、彼には鮮やかなパレットのように見えるらしい。

 目がチカチカするから読書は苦手なのだと、彼は以前話していた。


 共感覚シナスタジア

 多くの人には感じない色や、匂い、音を感じ取っている人々がいる。

 その感覚は彼らの中でも共通しているわけではないらしい。

 コウは、雨をガーベラに感じるらしいけれど、他の人は色を感じると聞いたことがある。

 一人一人違う感覚。

 その感覚をわたしは宝物だと思った。

 そして、コウはその宝物を持っている人間だ。

 いつだったか、彼にわたしの名前はグリーンなのだと聞いたことがある。

 けれど、何度聞いてもコウの名前の色は教えてくれない。


「そういえば、先生が今日俺の分のプログラムを作り終えたらしいよ」

 その言葉にわたしは慌てて立ち上がった。

「なにしてるの、行くわよ! コウ!」

 コウの足を持って引きずると、コウは慌てて飛び起きた。

「わかったよ! ……ったく」 

 起き上がったコウの腕を引いて、わたし達は先生のいる研究所へと向かった。


 先生は共感覚を研究しているお医者様で、同時にVRの開発に携わっている。

 最近は共感覚を持っている患者さんの視界を可視化することに力を注いでいた。

 わたし達生き物は、マジョリティの感覚が優先される。

 共感覚を持つ人間は、ほんの数パーセントしかいない。

 それを異端のように扱う人も、少なからずいる。

 コウも、子供の頃は奇妙がられて周囲の子と馴染めずにいた。

 ――でも、オレはまだいいほうだよ。ミコトがいるし。

 そう言ってはにかむ横顔が、繊細なガラス細工のようで、いつか壊れてしまわないか不安を覚えた。


 雨はガーベラ。日の光はラの音。

 ショパンの『別れの曲』はイエロー。

 パンの香りはレッド。

 わたしの名前はグリーン。


 コウの名前は?


 わたしは、彼の全てを知りたい。

 宝箱を抉じ開けてしまいたい。


 そして、孤独の淵から二人で抜け出すのだ。






 先生の部屋を訪ねると、先客が居て、頭を下げてきた。

 随分白くて、華奢な男の子だ。フードを目深まで被って、人目に付かないように去って行った。

「おや、コウとミコト。さっそくお出ましだね」

「先生、コウの視界が出来たの?」

 ミコトは目を輝かせて、先生の下へ駆けていく。

 その背中は、幼い頃から変わらない。

 オレのほうが、背が高くなったくらいで。


 ミコトは、オレの共感覚について初めて明かしたときから、すごく興味を持っていた。

 それも、純粋に好奇心だけだから、こっちも一緒にいて心地よい。

 最初は、ミコトが傍に居てくれればそれでいいと思っていた。

 けれど、先生に出会って、ミコトと共有できると知って、心が躍った。


 もし、同じ感覚でミコトと同じ世界を見ることが出来たなら。

 そう思って、先生に見えるものを伝え続けた。

 そうして出来た、オレの視界。

 ミコトはVR用のグラスを掛けて、部屋を見渡している。

「綺麗!」

 楽しそうに、部屋を歩いては違う世界に目を凝らしている。

「そうだ! コウの名前!」

 博士のデスクトップを覗き込んで、ミコトはオレの方を振り向いた。


 オレの名前は、黄金色。

 ミコトの好きな、金木犀と同じ色らしい。

 ずっと、そのことが嬉しくて、ずっと、そのことが恥ずかしくて――。

「コウ」

 ミコトが名前を呼ぶたびに、くすぐったくなる。

 彼女が金木犀の下に居ると、嬉しくなる。

「ミコト、オレはずっと孤独だなんて思ったことないよ」



 雨はガーベラ。日の光はラの音。

 ショパンの『別れの曲』はイエロー。

 パンの香りはレッド。

 ミコトの名前はグリーン。


 オレの名前は、彼女の好きな金木犀の色。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る