君の瞳に映るもの。
きっかけは、子供の頃だった。
国語の授業の、朗読の時間。
自分の順番が回ってきた。
立ち上がって、指定された一文を読み上げる。
けれど、途中に読めない漢字があって、わたしが閊えていると、くすくすと笑う声が聞こえてきた。
なんで、笑うの?
視界が狭まって、息が出来なくなった。
まるでプールで溺れてるかのようだ。
どうやって呼吸をしていたんだっけ。
異変に気付いた先生が、保健室に連れていくまでの数分間。
わたしは、くすくすという笑い声と、クラスメイトの視線に押し潰されそうな心地がした。
それから、人と目を合わせるのが恐くなった。
仕事へ向かう途中だった。今日はとても調子が悪くて、駅まで来たものの、電車には乗れそうになかった。
何本か見送り、会社には休む旨を伝えたけれど、しばらく駅から動けず、気付けば正午近くなっていた。
駅を出て、家へ戻る途中、俯いていたせいか、立ち止まっている人に気付かなかった。
危うくぶつかりそうになって、「ごめんなさい」と謝った。
「ああ、いえ」
振り返った男性は、にこりと笑ったけれど、どこか視線は合っていないように感じた。
いつもの癖で俯くと、彼の手に白い杖が握られているのに気付いた。
――あ。
その瞬間、どきりとした。
なにか、触れていけないものに触れた気がしたのだ。
わたしはまた小さく、「すみません」と謝った。
「いえ、大丈夫ですよ。……あ。あの、すみません。お急ぎでなければ、なんですが」
彼は進行方向を指差す。
わたしは、彼の背中から顔を出して覗いた。
指の示す先に、どこにでもあるような、一台の赤い
「自転車、かな。先に進みたいんですが、丁度点字ブロックを遮るように停められているんですよね。おまけに今日は人通りが途絶えなくて、横に避けるのも難しくて」
たしかに、赤い自転車は、彼らにとって道標とも言うべき点字ブロックを遮っている。
――それで、ここで立ち止まっていたのか。
悲しい気持ちと、憤りで、自転車を蹴りつけたくなる。
「よくあることなんです」
そう言って彼は笑うけれど、日常的にあっていい問題ではないのに、と切ない思いがした。
彼の腕を引くようにして、自転車を避けて通る。
「ありがとうございました」
「いえ、そんな……」
こんなとき、コミュニケーションの上手な人なら、どう返すのだろうか。
「あの」
ごにょごにょと言い淀んでいるわたしを気にしてか、彼から声をかけてくれた。
「よければ、そこの公園で少しお茶しませんか」
遊具は少ないけれど、開けた公園だった。子供からお年寄りまで利用している。
深いグリーンの可愛いキッチンカーが停まっていて、生成りのシャツとバンダナをした女性が接客をしていた。
「あら、モンちゃん彼女?」
「違いますよ。助けて貰ったので、お礼をしたくて」
「そう? いらっしゃいませ。なににします?」
「僕はアイスカフェオレを」
手作りのメニュー表を渡されて、少し悩んでから、「同じものを」って頼んだ。
店主のルカさんは二人分のアイスカフェオレと一緒に、クッキーを二枚ずつサービスでくれた。
「こっちに、丁度いいベンチがあるんですよ」
後ろをついて行くと、背もたれのある木製のベンチがあった。頭上には木の枝で自然の屋根が作られている。
並んで腰を下ろす。
こんな風に誰かと過ごすなんて、いつぶりだろう。
初対面の人とこうして話したことなんてあっただろうか。
「おいしいですよね、ここのカフェオレ」
彼、門司さんといると、時間が緩やかに流れていく。
「そう、ですね」
手元の、透明な使い捨てカップには、氷の浮かぶカフェオレ。
両手で包むように持っていると、手の平が冷たくなってきた。
「体調でも悪かったんですか?」
「え?」
「最初、ずっと下を向いていたから」
どうして、わかったんだろう。
思わず彼の横顔を見つめる。
門司さんは相変わらずまっすぐ前を見ていて、会話をしていても、視線が交わることはない。
わたしが、黙り込んだのを気にしてくれているのか、彼はカフェオレのカップを揺らしている。
カラコロ、氷がカップに当たって音を立てた。
「……わたし、人の視線が苦手で」
小学生の時のトラウマを、掻い摘んで話す。
社会人になった今でも、急に視線が集まってくるような気がして、具合悪くなってしまうことがある。
「そっか、それで俯いてたんですね」
門司さんは、もう一度小さく「そっか」と呟いて、カフェオレを溢さないようにベンチの端に置いた。
「僕は幼い頃に病気で視力を失ってから、ずっと暗闇の中で生きているんですよ。よかったら、経験してみませんか?」
「え?」
「これ、僕のアイマスクです」
彼は肩から提げていたメッセンジャーバッグから黒いアイマスクを取り出してくれた。
それを受け取って、恐る恐るつける。
「ようこそ、暗闇へ」
なんの変哲もないアイマスクだ。光が遮られて、視界からの情報が無くなると、心細くなってきた。
「門司さん」
「ここにいます」
「……はい」
「なにが聞こえますか? それから、なにを感じますか?」
深く、深く自分の中へ潜り込んでいくかのようだった。
この感覚、覚えている。
――プールで溺れているような。
でも、呼吸はできる。苦しくない。
最初は誰もいない暗闇だった。
そこに、隣に居る門司さんがぼんやりと影のように映る。
風が吹いて、頭上の木の枝が揺れた。葉の擦れる音が、さわさわと心地よい。
キッチンカーから、なにか香ばしい匂いがしてきた。
「……ホットサンドかな」
「そうだね。ルカさんのホットサンド美味しいんだ」
子供達が遠くで駆けている。楽しげな笑い声。
靴の音が、鳥が羽ばたいている音のように、軽快だ。
手に持ったカフェオレが汗をかいて、膝を濡らした。
いつも感じていた怖い世界は、ここになかった。
「ありがとうございます、門司さん」
アイマスクを取ると、眩しい世界が広がっていた。
見上げると鮮やかな緑が風に揺れている。
世界が変わったわけではない。
わたしが見ようとしなかったものだ。
キッチンカーに居るルカさんと目が合った。
けれど、もう逸らさなかった。
「大丈夫。怖くなったら、また暗闇で会いましょう」
子供みたいに泣きじゃくるわたしの背に、彼の温かな手が触れた。
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