この闇に咲く



 濡羽ぬればは、伊賀の里で生まれ落ちた忍びだ。

 伊賀の忍びは甲賀の忍びとは違い、主君を持たない。

 濡羽も誰かに仕えることはせずに、一人前として認められた後は、里を離れ、流浪して生きていた。 

 幼い頃から道具のように心を殺すよう教えられてきたせいか、誰かと生きていくことなど想像が付かない。

 女を買って、酒を飲んで……そうして、日々を過ごしてきた。

 近頃は濡羽の腕っぷしが認められてきて、売り込みに行かずとも方々から依頼が舞い込む。

 今回は伊賀から二百里近く離れたこの地で、幽閉されている姫君を暗殺せよという依頼だった。

 正直に言えば、遠い上に厄介な仕事ではある。それでも引き受けた理由は、随分と気前のいい客で、前払いでいくらか包んで寄越してきたからだ。それも、一月ひとつきは遊んで暮らせる額を。

 あとは成功報酬として倍以上の金額を用意しているらしい。

――さっさと、終わらせるか。

 そして、遊郭にでも入り浸ろうと、道を急いだ。


 姫の居るという天守閣は、他の城では有事の際以外は物置として扱われているような、生活の場としては適していない場所だ。

 依頼主は、なぜ彼女が幽閉されているのか、その辺りの事情に詳しい人物なのだろうか。

 濡羽は詳しくは探らなかった。誰に雇われようと、金が貰えればどちらでもよかったからだ。

 それにしても、たった一人の女を、忍びを使ってまで殺さなければならないのだから、人の世は罪深い。


 目当ての城が見えてきた。

 周囲に巡らされた深い掘に、暗闇に浮き上がる白く美しい城。

 今宵はいい夜だ、と濡羽は思った。

 十六夜の丸い月は、雲に覆われて、淡く光を滲ませている。

 人の目は、闇に弱い。忍ぶのに最適な夜だ。

 濡羽は闇の深い、見張りの目の届かぬところを駆け、鉤爪を使って塀へ飛び乗ると、塀から塀へと移って、あっという間に天守閣へと登り詰めた。

 風に遊ばれて、結い上げた髪がはためく。雲から月が顔を出す前に仕留めねば――。

 濡羽は屋根の上を音も無く駆けて、縁から身を乗り出すと、ぶら下がるようにして人の気配を探る。

 微かな足音、息遣い、衣擦れ。

 五感を研ぎ澄ましていく。

 一人、二人、……ここいるのは三人だろう。内一人は目標の姫君だとすると、いくら城の最上階で幽閉されているとはいえ、警備が薄すぎないかと疑問が生じた。

 ……実入りのいい仕事とはいえ、引き受けるべきではなかったか。

 罠を張られているのではないか、濡羽は尚一層周囲を警戒しながら、降り立つと部屋の中へと忍び込んだ。


 随分と飾り気のない部屋だった。

 そして、異様に暗い。濡羽の侵入した窓以外は閉めきられている。

 板張りの部屋に、六畳ほどの畳み。そこに布団が敷かれている。

 規則正しく上下している布団。他の気配は障子の向こうからする。

 罠は張られていないようだ。

――さて、殺してしまおうか。

 仮にこの楷の二人と戦うことになって、騒ぎを聞きつけて階下から応援が来たとしても、余裕で逃げ切れるだろう。

 呼吸を整えると、頭巾で口許まで覆う。

 腰の忍刀の柄を握り、一気に距離を詰めると、馬乗りになって、引き抜いた刀を振り上げた。


「お前が、濡羽か」


 そこに居たのは、手折れそうなほど華奢な女だった。そのくせ、切っ先を向けられても怯みもしない。

 何より濡羽の動きを止めさせたのは、女の右目だった。


――なんて、美しい。彼岸花のような緋色。


 闇の中にあっても、燦然と輝く緋色の瞳。

 忍刀の切っ先が小刻みに震える。そのくせ、体は絡み取られたかのように動けない。

 まるで、濡羽の奥底にあった心の揺らぎが、そのまま刀に映し出されたかのようだった。

「忍びとはみな、お前のように澄んだ心をしているのか」

 女は腕を伸ばして、濡羽の顔を蓋っていた頭巾を引き下げた。

 風によって雲が流され、射し込んできた月明かりが二人を照らした。

「ふふ。いい男だな」 

「……狐狸こりか、術師か」

「バケモノみたいに言わないで。瞳の色が違うだけだ」

 垂れてきた濡羽の長い髪を手繰り寄せて、女は口付けた。



「金はここにある。早く殺してくれないか」



 女が布団の下を捲ると、大量の金が並べられていた。

 確かに前払い金の倍以上ある。

 ……しかし、不思議と金に手を伸ばす気になれなかった。

 全て、この女の謀ったことなのだろうか。

 濡羽の手で、命を散らすつもりだったのだろうか。


――散らしてしまうくらいならば。


「この金は、くれてやる」

 濡羽は女に噛み付くように口付けると、米俵のように荒々しく担ぎ上げた。

 忍刀を仕舞い、鉤縄を取り出して、丸い月を背にして駆け出す。

「待て、何故殺さない!」

 濡羽は答えない。跳ね回る濡羽にしがみつきながら、女がさらに問う。

「どこに行くつもりだ!」

「……さあな。俺は、人は殺しても、花を手折るつもりはない」


 喉が鳴る。

 口許が、目尻が緩む。

 濡羽は初めて、道具としてではない自分を感じていた。

 


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