常夜燈
「ごめんね、愛してあげれなくて。……ありがとう」
そう言いながら、去っていく背中。
わたしは見送ることもなく、ベッドの上で声を押し殺して泣いた。
ドアの閉まる音が響く。
オレンジ色の、小さな明かりを点けたまま――。
初めてナインを見つけたのは、駅前だった。
駅の小さな広場に居座って、安いギターを掻き鳴らしながら、まるで遠吠えのように歌っていた。
決して上手くなんてない。ギターも、歌も、インターネットにゴロゴロいるレベル。
でも、立ち止まって聞いてしまう何かが彼の歌声にはあって、わたしと同じ様に足を止めて聞いている人がいる。
気付けば仕事終わりにも関わらず、二時間近く彼の歌を聴いていた。お開きになって初めて、腕時計を見てぎょっとした。
こういう時、一人暮らしを始めたことを後悔する。
実家に居れば、母親が何かしら用意しておいてくれたし、インスタントのストックがあった。
一昨日から買い物に行っていないせいで、家の冷蔵庫はすっからかんだ。
仕方ない、と帰り道の途中、コンビニに立ち寄って、適当にお弁当を選ぶ。カゴに、健康志向のお弁当を入れて、飲み物を選んでいると、ずしりと重くなった。
「お姉さん、さっき聴いてたよね」
小悪魔のような笑み、とはよく言ったものだ。彼の笑みは、背筋をぞくりとさせるのに、心を引き寄せてしまう魔性さを併せ持っていた。
「奢ってよ」
まるで昔からの友人のように、自然にパーソナルスペースへ入ってくる。
「……いいよ」
カゴには彼の缶ビール三本とわたしの五百ミリのペットボトルの紅茶、お弁当。
店員さんがビールと紅茶を同じ袋に入れたから、分けて貰おうとしたら、彼はわたしの言葉を遮った。
「同じ袋でダイジョーブでーす」
そして、温めて貰ったお弁当の入っている袋と、飲み物の入った袋を持つと、彼は有無を言わさずわたしの家まで付いてきた。
……付いてくることを拒まなかった。
真っ暗な一人暮らしのワンルームに帰ると、彼は部屋の隅にずっと背負っていたギターケースを置いた。
脚が折れるタイプのローテーブルを引っ張り出して、お弁当と飲み物を広げた。
「お姉さんめっちゃいい人だよね。よかったら、このまま泊めてくれない?」
彼は胡座をかいて寛ぎながら、二本目のビールを呷った。横でわたしは、お弁当の具を少しだけ分け与えた。
「いいよ」
「なんかさ、こういうの慣れてる? ……なんなら、体でお礼しようか?」
「バカじゃないの。それより、わたしシャワーしてくるから、飲んだら片してよ」
「はぁーい」
酔っ払いの返事に期待してはいけないと、この時勉強した。
ため息混じりに、ゴミを片す。
わたしのシングルベッドに、動物のように丸くなって寝ている彼。ぐいぐい力ずくで壁側に寄せて、スペースを確保すると、わたしもベッドの端に寝ることにした。
部屋の電気を段階的に暗くしていくと、背中から声がした。
「消さないで」
どきりとして、思わず動きが止まる。
「暗くすると、寝れないんだ」
そこから彼は、ポツリポツリと自分のことを語った。
「俺、片親で育ったんだけど、ネグレクトだったんだよね。かーさん、男のとこ入り浸って、全然帰ってこなくてさ」
あまりに明るく話すから、何も返せずにただ頷く。
「明かりを点けて待ってれば、帰って来てくれるんじゃないかなって思ったんだよね。それからずっと、明るくしないと寝れないんだ」
彼がネグレクトに遭っていたとは思えなかった。
明るくて、嫌な気持ちをさせずに人の心に入り込む。
「でも、わたしは暗くしないと寝れないのよ」
「あれだけでいいからさ、お願い」
指さしたのは、ナツメ球だった。
仕方ない。小さなオレンジの明かりだけにすると、彼は小さく「ありがとう」と呟いた。
見知らぬ誰かと背中合わせに寝るなんて、初めてかも知れない。
いつもより明るい部屋に慣れなくて、目を瞑ってもなかなか眠気は訪れなかった。
二日目。
仕事に行く際に一緒に家を出た。ふと今日の宿があるのか気になって、仕事が終わって駅前を探した。
けれど、一時間ほど探してもどこにも居なくて、諦めて帰ると、彼はうちのドアに背を預けて待っていた。
「おかえり」
「……ただいま」
三日目。
仕事が早く終わったから、スーパーに駆け込んで両手一杯に食材を買った。
手料理を作ってあげると、帰って来た彼は、目を輝かせて食卓につく。
オムライスにケチャップで名前を書くのが実家のルールだったから、と名前を聞くと、彼は目を丸くした。
「名前言ってなかったっけ? 九兵衛だから、ナインって名前で歌ってる」
「きゅうべえ?」
「そう。九兵衛が本名」
彼は愛しそうに自分の名前を口にした。
「……じゃあ、ナインって呼ぶね」
彼のオムライスには『ナイン』、自分のには『ハナ』と書いた。
よほど嬉しかったのか、お礼に一曲歌ってくれた。
五日目。
真夜中に帰って来た彼は、するりとベッドに滑り込んできた。
――甘ったるい香水の匂いがした。
頭が痛い。気持ち悪い。
そして、六日目。
最近眠りが浅かったせいか、起き上がれなかった。
仕事が休みだったのが救いだ。
ナインは、心配そうにうろうろしていたけれど、夜になるとギターケースを持って出ていった。
わたしは久しぶりに真っ暗な部屋で寝た。
「ハナ、大丈夫?」
いつの間に帰って来たのだろう。
部屋にはナツメ球が点いている。オレンジの明かりの中で、心配そうにナインが覗き込んでくる。
その柔らかな頬に、初めて触れた。
「ねぇ、しようよ」
彼の表情が固まった。
「体で払ってくれるんでしょ?」
「……ごめん。ハナが俺のこと好きってわかってて、利用してた。……俺、ハナのことは抱けない」
「謝らないで」
背中を向けて、横になる。
重苦しい沈黙に、惨めな気持ちが滲む。
「……俺、出ていくよ」
それは、単にわたしの部屋から出ていくという意味だけではないと察した。
――引き止めてはいけない、と思った。
「ごめんね、愛してあげれなくて。……ありがとう」
眠れなくてもいいから、背中合わせでもいいから――彼が恋しくてナツメ球を点けてみる。
明るいとやっぱり眠れなくて、今日も彼の歌を口ずさみながら、うつらうつら夜を越えていく。
いつか、この明かりを忘れられる日まで。
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