さあ、音楽をはじめよう。



「お前らふざけてんのか! こんな演奏じゃ聴く観客が可哀想だ!」

 コンサートホールに今日も怒号が飛ぶ。指揮者の五十嵐が舞台から降りて行ってしまったため、練習は中断することになった。

「ふぅ……俺、追いかけてきますね」

「毎回嫌な役やらせてすまんね、古瀬」

「いいえ、それがコンマスの役目ですから」

 古瀬は眉を八の字にして笑いながら、五十嵐の後を追った。背後からは、溜息と五十嵐への愚痴が聞こえてくる。

 ――ここ、コンサートホールってわかってるのかな。

 元々音が響きやすく作られた施設だ。舞台上のちょっとした物音も、客席に響いてしまう。

 おかげで五十嵐の怒号も何倍もの迫力になって聞こえてくる。耳はクラシックをやる者として宝物の一つなので、なるべく負担にならないようにと、怒らせないように気を遣ってはいるものの、演奏だけはどうしようもない。

 五十嵐からしたら、まだ何も知らない小学生に教えてるようなものなのだろう。

 五十嵐は還暦を迎えた、国内ではそこそこ名の知れた指揮者だ。本来ならば、古瀬達アマチュアのオーケストラなんて引き受けて貰えるような人物ではない。

 それがどういう縁か、引き受けて貰うことが出来て、こうして二週間後に控えたコンサートまで、一ヶ月も前から指導をしてくれている。


「五十嵐先生」


 喫煙室で紫煙を燻らせながら、五十嵐は古瀬を睨み付けた。

「あんだよ」

「戻ってご指示頂けませんか。あと一時間後には片してホールを出なくちゃいけません」

「あんな子供ガキのコンサートごっこしてるやつらに何を教えろってんだ」

 吐き出された煙が揺れて、辺りを一瞬だけ白くぼやけさせる。

「……先生からしたらコンサートごっこに見えるかもしれませんが、俺達はいつもちゃんと『音楽』をやってきました」

 古瀬は自分の左手を見つめ、そして力強く握った。

「二週間後のコンサートのために、みんな必死に頑張っています。だから、どうか舞台へ戻ってください」

 深々と頭を下げる古瀬に、五十嵐はタバコの最後を一口吸って、灰皿に残った火を押し付けた。

「お前、コンマスなんだからわかってるよな。一月ひとつき経ってもこんなんじゃ客なんか入れられんぞ」

「……ご指摘、ごもっともだと思います。三日間、俺にください。絶対五十嵐先生に後悔させませんので」


 コンマス。コンサートマスターは、オーケストラの中心人物であり、先導者でもある。演奏が始まる前にはチューニングをし、演奏中には引っ張っていったり抑えたり、終わるまで気の引けない仕事だ。

 オーケストラ内の優秀なヴァイオリン奏者が選ばれるため、花形のように思われがちだが、実際は指揮者とオーケストラの間を取り持つ、濃やかな気遣いがなければ務まらない裏方でもある。

 いかにコミュニケーションを取って、オーケストラ内を調和させていけるか。

 古瀬は中間管理職のようだなぁ、と客観的に思っていた。


 五十嵐は勝手にしろ、と言って去ってしまった。

 指揮者は気難しい人が多い。でも、それだけ音楽に愛情が深いところがある。

 古瀬は五十嵐にぜひ指揮を取ってほしいと考えている。きっと、このオーケストラのためになることだ。

 ホールに戻ると、仲間達の不安そうな顔が目に入った。

「すみません、五十嵐先生は帰られました。でも、練習を続けましょう」

 古瀬は五十嵐の居た、オーケストラの中心に立つと、右手を上げた。

 みんなが楽器を構える。

「大丈夫。あの人は俺が連れ戻す」

 このオーケストラの良いところを、五十嵐にも認めて貰うため――古瀬は、一人一人に丁寧にアドバイスをした。


 それから三日間、全体練習、それぞれの楽器の練習に付き合い、さらに自分のパートの練習に励んだ。

 これだけ一日中ヴァイオリンに触っていたのは、学生の頃以来かもしれない。

 五十嵐は様子を見に来るけれども、客席に彫像のように座って、気が済むと帰ってしまった。

 それでも、見にきてくれるだけで十分だ。

 和気藹々としている練習に、またコンサートごっこと言われてしまうかもしれない。――それでも。


 三日目、五十嵐に呼び出されて、古瀬は喫煙室にいた。

「古瀬。お前、なんでこんなアマチュアオケで燻ってる」

「燻ってるつもりはないんですけどね」

「お前が音大でヴァイオリンを弾いてたのを見たことあんだよ。プロになれるレベルだったろう」

 古瀬は左手を見つめて、力強く握った。三日前にも見た仕草だ。

「……腱鞘炎をやったんです。手を負傷してから、コンクールも出れなくなって、心を病んで、途方に暮れてたときにここのオケに出会いました」

 腱鞘炎が落ち着いてきた頃のことだった。

 それでも、一度手放してしまった感覚を戻せなくて、コンクールに出ることを辞めてしまった。

 ここの先代コンマスに、「オケを守ってほしい」と頼まれた。最初は渋々だったが、徐々に楽しくなっていった。

 コンクールとは違う、和やかな雰囲気。重なりあって、調和していく音。

「よく『音楽』を、音を楽しむと言いますが、果たして俺はどこまで楽しめていただろうかと思いました。

 コンクールで上を目指すことは確かに有意義で楽しいけれど、観客が笑顔で帰ってくれる、今の『音楽』を俺は大事にしたいんですよ」

 五十嵐は紫煙を天井に向かって吐き出すと、小さく「そうかよ」と呟いた。

「先生、俺達の『音楽』を導いてください」

「……しょうがねぇな。頼むぜ、コンマスさんよ」

 指揮者にパートナーコンマスとして認められることは、栄誉のあることだ。

「はい」



「おい! コントラバス、ちゃんと楽譜読んでんのか!」

 今日も五十嵐の怒号が飛ぶ。オーケストラの面々は顔を歪めるものの、もうその口から五十嵐への愚痴は出てこない。

 コンサートを成功させたいのはみんな一緒だ。

 五十嵐の表情も、少し変わった気がする。

 あくまで、少し、だが、穏やかだ。

 五十嵐が腕を上げて、古瀬を見る。

 古瀬は弓を上げると、五十嵐の視線に応えて頷いた。

 





おわり

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る