翼を持つ者たち。



 岩肌が覗く、高く聳える山の中腹。自然に出来た大きな横穴の中で、青年は砂色のジャケットに付いた雫を払った。

「いやぁ、すごいスコールだな」

 風に煽られて、危うく岩肌に叩きつけられるところだった。

 偶然にも横穴が見えたので、体を押し込むようにして避難したところだ。

 外では風が獣のような唸り声を上げて、滝のような雨が勢いよく吹き込んでくる。

 もう少し遅ければ、風に遊ばれて、墜落していたかもしれない。

 青年はゴーグルを濡れた前髪と一緒に上げた。

 やれやれ、と腰を下ろすと、先に腰を下ろしていた少女にじっとりと睨まれた。

「……バランス崩したの、スコールのせいじゃないよ。ヒズミのコントロールがヘタクソだからだよ」

「なんだと?」

 少女は肩までの長さの艶やかな白い髪をしている。その髪をしっとりと濡らしている雫を疎ましそうに指先で払った。

 彼女は飛行機乗りのような厚着をしているヒズミとは違って、ノースリーブの真っ白なワンピースを纏っている。

 露出している肌も、透き通るように白く、まだ未熟だ。

「あたし、スコールの中でも飛べるもん」

 柔らかそうな頬を膨らませて、少女――トキは、ヒズミに不服を訴えた。

「はいはい、トキちゃんはすごいでちゅねー」

「んもぅ! バカにしないでよ!」

「あのなぁ、子供扱いはしても、バカにはしてねーよ。……お前はオレの大事なパートナーだからな」


 その昔、人々は翼を手に入れた。

 飛べると信じた者にだけ与えられる翼だ。

 翼を手にした者たちは、風を愛し、まだ見ぬ景色を追い求めて、大空を駆け回った。

 だが、空に飛び立った者の大半は翼を捥がれて地に落ちていく。

 ……飛べることを、信じる心を失うのだ。

 その悲惨な死は、人々を恐れさせ、多くの者は空を飛ぶことを諦めていった。


 ヒズミがトキと出会ったのは、三年前のことだった。

 目を閉じると、目蓋の裏――暗闇の中に、淡く輝く白銀の卵が見えた。

 やっと自分も空を飛べる。

 ヒズミは一年の間、卵に語り掛けた。



――オレがお前に、誰も見たことのない世界を見せてやる。

 黄金の国、空を覆いつくす虹、理想郷アルカディア

 お前の目に映らない世界はないだろう。

 だから、お前はオレを誰よりも遠く、高く、誰も見たこともない世界へ連れて行け。



 ヒズミの声に応えて、卵はやがて、人の形を成した。

「いいでしょう、ヒズミ。あたしがあなたをこの世界の果てまで運んであげる」

 二人は誓った。誰よりも遠く、高く、そして誰も見たことのない世界を目指すことを。

 トキはヒズミのたった一つの翼だ。

 そして、同じ夢を追うパートナーだ。


 風の音が弱まってきた。

 ヒズミは足を滑らせないように気を付けながら、外の様子を窺おうと顔を覗かせた。

 雲が千切れて晴れ間が覗くと、眼下には広大な樹海が見えた。雨に濡れた葉が陽を浴びて、緑が一層力強く息をする。

 柔らかな風が頬を撫でた。

「行こう、トキ」

 ゴーグルを掛け直す。ヒズミの瞳は射し込んできた光を受けて、さらに強く煌めいている。

 きっと、疼いて堪らないのだ。今すぐにこの風を切って、翔ていきたいのだ。

 トキはまるで子供のような彼の表情を見て、小さく笑った。

 ヒズミの背に寄り添うと、トキは目を伏せた。すると、人の形をしていた体は、淡く光を放ち、紐を解くかのように姿を変えていく。

 そして、瞬く間に大きな白銀の羽へと変貌を遂げ、ヒズミの背に翼を授けた。

 トキは他の者の翼に比べても一際大きい。 ヒズミの自慢の翼だ。



――誰よりも高く、遠く、そして誰も見たことのない世界へ。



 横穴から勢いよく飛び出すと、ヒズミの体は風を受けて高く高く舞い上がっていき、そして沈み行く太陽へ向かって羽ばたいた。

 トキを信じている、その横顔に恐れなどない。

 風を纏い、遙か世界の果てへ。

 その姿は光の中へと溶けていった。





おわり

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