第8話 忘れられた精霊

「忘れられてる? 知らないんじゃなくてか?」

 店主から借りた傘を広げながら、陽介は言った。

「精霊には信仰もある。ここで生まれ育ったのなら存在を知らぬはずがない! それを、名すら知らないなどと……!」

 フラムの語調は強い。かなり怒っているようだ。

「けどあの二人、酔っていたとはいえ嘘をついている感じじゃなかったけどな」

 窓ガラス越しに店内を覗くと、二人組の青年はまだ飲みたりないのか、追加で酒を注文をしていた。ドールは気前よく注ぎ、二人がえへらえへら笑っている様子が伺える。


「エルメスが人々の記憶を書き換えている、と考えるのが普通だな」 

「精霊の存在を本当に消した可能性もあるんじゃないのか?」

 悪いなとは思いつつ、疑問を口にする。

「それはないな。もしそうなら、私もとっくに消されているはずだ」

 この雨雲も恐らくはと前置きをしてから、フラムが空に向かって炎を噴いた。町の噴水を中心に広がり続ける不気味な雨雲は、少し形を変えただけで散らなかった。


「上手く言えないが、この雨には違和感というか、嫌悪感がある。私が封じられていた時に感じたものに近い」

 フラムは虫にまとわりつかれているのを払うかのように身体を振った。

「エルメスは記憶から消してしまうほど精霊が邪魔だったってことだよな。調べようフラムさん、記憶がなくても、どこかにいた証拠はあるはずだ」

「……君は前向きな性格だな。よし、行こう」


 道具屋、冒険者ギルド、飲食店などで売り歩きながら聞き込みをしていると、図書館へ行くことを勧められた。本なら手がかりがあるかもしれないと入っていくと、広い館内には書物が整然と収められていた。手持ち無沙汰だが酒場の喧騒には耐えかねる、といった人々がポツポツと席に座っている。

 陽介は信仰や文化について書いてありそうな本を司書に訪ね、この町の歴史や文化について書かれた本を出してもらった。


 席に座って本をめくっていくと、この大陸は水資源が豊富で作物も育ちやすく、港から交易が発達し世界で一番人口の多いことが紹介されていた。

 しかし、水害や治水についてはその時代にはいないはずの勇者エルメスが荒ぶる川の魔族を倒して収まったことになっており、祭りは太古の昔行われていたという一文だけで済まされていた。


(おかしいよ、あいつはまだ十八歳のはずだろ? でも水害が起きたのは五十年も前の話だ。ほら、ここを読めばわかるけど、魔族を倒した川とは別の場所だ)

(自分の手柄を、歴史に無理やり組み込んでいるのだろう。この魔族は私の大陸でも見かけることがあったが、か弱く水害を起こせるほどの力はなかったはずだ)


 魔王討伐以降聖都からの供給機設置など、ごく最近のことまで書かれた本であったが、雨が降り続いている理由や、町から出ようとすると雷に打たれてしまうことについての記述はどこにもなかった。


 肝心な水の精霊について書いてあっただろうページは白紙になっていた。隣に名前の部分が黒く塗りつぶされた挿絵だけが残されていて、三股槍を携えた美しい人魚が水を巻き上げ、人々に感謝されている様子が描かれていた。


(へー、水の精霊って、人魚なんだ。美人だな)

(彼女の名はアリエッタ。歌うのが好きな心優しい者だ)

(意外と知ってるんじゃん)

(姿を見たのは初めてだ。思念だけを送る会合では声による会話だけだったのでな)


 司書の意味ありげな咳払いによって会話は中断され、本を返して外に出た。強くもならず弱くもならない規則正しく降り続ける雨に、陽介もなんだか妙な薄気味悪さを覚えた。


 酒場に戻りドール屋の店主に売上金と残りの在庫を返すと、報酬の銅貨八枚を受け取り礼を言って別れた。四枚もあれば宿は取れると言われ、陽介は町の宿に一晩泊まることにした。魔王討伐後ギルドは宿屋兼業になっており、冒険者も少なくなったからと一番いい部屋に案内された。それでも床は軋み、ベッドは工房よりも湿ってペッタリしている。


「しょうがないしょうがない……寝たらどうにかなる」

 歩き疲れた陽介は諦めて横になった。うつらうつらとしていると、窓辺に立っていたフラムがひょいと腹に乗っかってきた。

「ごめん、眠いからあとに……」

「起きろ陽介、妙な音が聞こえる」

 前足で頬をベシベシ叩かれて起こされ、眠い目を擦りながら窓に耳を当てると、雨に混じって、黒板を爪で引っ掻くような嫌な音がして眠気がふっ飛んでしまった。窓からは暗いが噴水が見えている。


「行ってみるか」

 脱いで放り出したマントを着て、陽介は噴水へ向かった。

 排水溝が機能不全を起こしている噴水は、壊れたように水が溢れていた。嫌な高音は近づくほど大きくなり、言葉にするならば「もう殺してくれ」と叫んでいるように聞こえた。覗き込んでみると、大きな目玉がギョロりとこちらを見ていた。


「うわ、なんかいる!!」

 飛び退くと、大きな目玉が水から上がってきた。ぶよぶよした軟体の体をズルズルと持ち上げ、敵意を示すように水を吹きかけてきた。

「戦うしかなさそうだな」

「こいつも水棲の魔族だ、雨も降っている今、私の炎では効果が薄い」

「それなら貰った武器の出番だな! ちょっと燃えてきたぜ!」

 陽介は剣を抜いて構えた。

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