2020年9月9日
はじめに断っておこう。この脱力系エッセイ『ダザイ』を楽しみに待っていてくれた方たちには申し訳ないが、今回の話にダザイは現れない。なぜなら、前回のエッセイを書いて以来、私の部屋にダザイはおろかタカギもタカギモドキも、今にわかに思い出したホウサイだって姿を現してはいないのだから。
ではなぜ筆を取ったのかといえば、なんどもSNSでも呟いている通り、ただの息抜きに他ならない。このエッセイは創作ではなく、ただ駄文をつらつらと書き連ねるだけの、いわばアウトプット作業の下位互換とも言える吐き出し、つまり吐露というわけである。読みはトロだ。吐き出して露にする、まさに文字通りのことをしているだけなのだ。
なので、ここまで読んで『なんだよ、脂ぎったおっさんの暇潰しに付き合って貴重な人生の時間を無駄にできるか』という将来有望ながらも前途多難な若人たちは己の道へと戻るがよい。ブラバするのも面倒だという、ある種の諦観を持った人生の玄人たちが一人でも残ってくれたらいいのだ。
とは言っても、本当にどうでもいいことだけを書いても誰も読まないだろう。一つぐらいは誰かしらの役に立つ情報やら、少なくともニヤッとでもいいから読み手の感情を動かしたいと思うのが物書きたるもの。
では、受け売りではあるが、私の解釈を交えてバランスの話をしようと思う。
現代社会において幸せの定義は諸氏それぞれである。ふた昔ほど前であれば、企業に就職し、家や車を買い、妻や子供を持つというのが一般的な幸せの形だっただろう。しかし現代では技術が発達して娯楽としての物や社会での個人の作業量が増加したのに反し、プライベートな時間が目減りしたことで趣味や独りでいる時間というものが貴重になった。
何が言いたいのかというと、男性であれば就職して企業に生涯を捧げるという考えが馬鹿げたものに変わり、女性であれば結婚して子供を産めば人生万事オッケーで幸せであるという概念が崩れたということだ。こうして一般的な幸せの形が崩壊しても、われわれの根底には『幸せの定義』として揺るがない盤石な存在がある。それは『収入』『健康』『交友関係』の三つのバランスを保つことである。
これらの一つでも欠けてしまうと人は幸せを感じられないのだという。
例えば、安定した収入を得られて多くの友人に恵まれていたとしても、寝たきりのような健康状態では幸せとは言いがたい。健康で良い人々に囲まれていてもまったく収入がなかったら幸せというには無理がある。お金があって健康でも友人が一人もいなかったらわびしいだろう。
まぁ、この三つのバランスというのが京都大学にて教鞭を執る男性の受け売りなのだが、さすがといったところではないだろうか。私はこれを聴いた時に酷く納得した覚えがある。
計らずともなんだか真面目な感じになってしまった今回のダザイだが、最後に私の三つのバランスがどうなっているかを晒してどうにか釣り合いを取ろうと思う。現在の私は、収入はアルバイト時代以下で執筆のせいでアナルが崩壊している上にリアルでの友人がゼロという目も当てられない
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