2020年5月31日

 ここのところ『登山客』の執筆に集中していたせいでダザイのことをすっかり忘れてしまっていた。急激に悪くなった右眼が心配で虫どころではなかったというのもある。あれから一週間ほど水槽の蓋を開けていないのでダザイの消息は不明だった。蓋を開けていないから魚に餌をやっていないという意味でない。ダザイを放り込んだ水槽にはヤマトヌマエビと自然繁殖したスネイルしか入っていないのだ。彼らの餌となる水草もまた、少しだけ入れた株が都合よく爆繁してくれたので、特に手を下さなくとも生態系が維持されているというわけである。つまり、エビやスネイルが糞をし、その糞を養分として水草が育ち、育った水草をエビやスネイルが食す。そして水槽に入っているスネイルは雌雄同体のタイプなので、一個体でも卵を産んで勝手に増えていく。そう、地球と同じシステムである。つまり、私がこうしてPCに向かって物を書いているとき、左隣には地球の縮小版が置かれているということだ。地球とは言わずと知れた宇宙空間に浮かぶ惑星の一つ。いわば私は宇宙で執筆をしているのと何ら変わらないということである。ひさかたぶりに惑星の蓋を持ち上げてダザイを探してみたのだが、一週間前よりも水草の占める面積が増えて水面が見なくなっただけで、ヤツの姿はどこにも見当たらなかった。おそらく死んだのだろう。


 しばらく執筆を続け、目の疲れを感じて左に顔を向けると、出て行ったはずのタカギモドキが惑星と惑星の間の所定地に戻ってきていた。やはり古巣が捨てられないのかと立ち上がってよく見ようとするなり、私の巨大さを突然降臨した神とでも思ったのか、モドキはそそくさと水槽の陰へと身を隠してしまった。臆病なヤツだと水槽の裏を覗き込もうとして、モドキの巣に糸のように細い別蜘蛛が揺れているのを見つけた。モドキが連れ込んだのだろう。蜘蛛の分際で巣をシェアするなどとは瀟洒しょうしゃなヤツだ。


 エピソードを一つ書き上げ、ふと左へ頭を振った私は、巣にモドキや線蜘蛛とは違った黒い塊が浮いているのを見て立ち上がった。愚鈍な小虫が掛かったのだろう。その愚かな姿をよく見てやろうとスマホのライトで照らしてみると、見慣れた黒とベージュのまだら模様が目に入った。ダザイである。すでに絶命しているのか、脚を動かしている様子はなく、吊るされた糸によってくるくると回転している。これが新しいダザイなのか、はたまた水槽から脱出した昔のダザイなのかは判然としないが、もし後者であったのなら何とも壮絶かつ不運で憐れな生涯ではないか。自然界から新しい世界を求めて旅立ったダザイは不運にも私の住む魔窟へと飛来、冒険という冒険もせぬままに己の数億倍もの大きさを誇る私という規格外の巨大生物に捕獲され、特に何の感慨もなく『ただ入れたかったから』という理不尽な理由で出口のない水牢へと投獄。這う這うの体で水牢から脱出できた僥倖も束の間、タイミング悪く古巣へと戻ってきていた蜘蛛という捕食者と遭遇し、健闘の甲斐もえ無く糸に絡め取られて自由を奪われ、宙吊りの状態で生きたまま毒液を注入されて内臓をどろどろに溶かされながら、『一体俺が何をしたっていうんだ。ただ繰り返されるだけの退屈な毎日を捨て、新しい世界へ飛び込んで刺激的な経験をしてみたかっただけだというのに。あんなデカイヤツ……チートなんてもん……じゃ』などと考えているうちに生涯を振り返ることもできぬまま意識が混濁してきて最期を迎える。ただの虫のクセに私よりも凄い人生だ。ダザイよ、君の波乱万丈な生涯は君の種族間で伝説の勇者の冒険譚として後世まで長く語り継がれるに違いない。

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