2020年4月25日

 帰宅したら現在執筆中の『登山客』を書くのが日課なのだが、思いのほかこの観察日記を気に入ってくれた読者の方がおり、私はバッグを下ろすなり水槽の蓋を開けて文豪と詩人の名前を冠した彼奴きゃつらの姿を探した。もちろん、水草の上ではなく水面に浮いていないかを、である。ところが、いくら私が水槽内に目を走らせても文豪たちの姿はどこにも見当たらなかった。まさかとは思うが、二匹ともこの水牢からの脱出に成功したのだろうか。完全な密閉空間ではないため不可能ではない。だがしかし、水槽の壁面はアクリル製なので、たとえ水草づたいに辿り着いたとしても、水草の上からでさえ滑落するような間抜けな文豪ども、もとい『ダザイ』と『ホウサイ』の能力ではでも使わない限り到底よじ登ることは出来ないだろう。その上、壁面の上部のへりは返しのようになっており、登りきったところでその死のトラップにより水面へと落下するのは必至である。ともかく、彼奴らは水槽から姿を消してしまった。


 SNSをしばらく流し見していると、視界の左端に何やらもぞもぞと動くものが映り、私は「もしや『ダザイ』もしくは『ホウサイ』のどちらかなのでは?」と思って視線をそちらへ向けてみた。残念ながら、そこにいたのは体躯が一センチメートルほどの蜘蛛だった。巨大なものは無理でも小さい蜘蛛なら私だって触れる。それに蜘蛛は益虫であるし、放っておいてもなんら問題にはならないはずだ。が、注意しなければならないのは毒の有無である。奴らは優秀なハンターでもあるのだ。小さいからといって舐めてかかると消化液を注入されかねない。私はその蜘蛛がセアカゴケグモではないことを確認し、手で掬い上げてその辺の隅に放ってやった。しかしどういうわけか、しばらくすると蜘蛛はまた私の近くへと舞い戻ってきた。巨大過ぎる脅威に対して盲目的な行動を取ってしまうのは何も人間だけではないようだ。私はもう一度その蜘蛛を手で掬い上げ、再び水槽の近くへと放ってやった。


 小一時間ほど執筆作業に専念し、ふと気になって水槽へと目をやった私は、南国の椰子の木の間でハンモックに揺られるがごとく、二つの水槽の間に巣を張って悠々自適な様子でいる先ほどの蜘蛛を見つけた。隠れているつもりなのかもしれないが、私から奴の姿は丸見えとなっている。まぁ、いい。奴も文豪ファミリーの一員に加えてやろうじゃないか。私は南国というところからハワイを連想し、ハワイといえばウクレレ、ウクレレといえば高木ブーだと思い至り、その小さき益虫を『タカギ』と名付けて観察対象として放置することにした。

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